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新しいものに息切れ

春は新しいものがどしどし作られる季節なので、家にこもってデザインすることが多いわたしも、撮影や取材などで外出が増える。そうすると、日頃、寝かせている体力をふんだんに使うこととなり、きっちり眠くなるので寝る前に開いた本は数ページ足らずで閉じられることとなる。(それは不服)

そんな中、移動中に読んでいた若林正恭の紀行エッセイ『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』がおもしろい。

若林が、資本主義国家に住む日本人として、社会主義国家キューバの地に訪れ、等身大の感覚で疑問を持ったり、好き嫌いを感じたりする姿、キューバに行った奥底にある想いは、日々自分がもやもやとしている感覚に足並みを揃えてくれるようで、読みながら、そうそう、そう、と何度も心の中でうなずく。

わたしは広告にうんざりしていて、それは自分にとって必要ではないものまで持っていなければならない気にさせられるからだし、目立つものや、分かりやすいものもすきじゃない。だけど仕事でデザインをしていると、そのどちらからも逃れられない。いつしか職業病のように癖がついて、日常的にすぐ新しいものに目がいってしまう自分に嫌気がさす。

定期的に自分のしていることに迷う時期があり、そんなときいつも思い出すのが原研哉さんが本に書いていたこと。

理解されるということは、消費されるということでもあるんです。永久に理解から逃れ続けていくというか、理解したと思われないように、いつも未知なるもの、新鮮なものとして興味を更新させ続けることが大事なんです。それがコミュニケーションだと思っています。

原研哉『なぜデザインなのか』

だけど、その言葉に対してどこかでいつも後ろめたくて、新しいもの新しいもの新しいものと考えていると、だんだんと息切れのような感覚になる。

音楽も本も映画も、わたしのすきなものはどれも聴いたり読んだり観たりする人がいてはじめて成立する、ある種コミュニケーションの文化でもあるのだから、それぞれの業界の人はおなじような悩みがつきないだろう。

これをつくって喜ぶ人がいるか、これをつくって悲しむ人がいるか、そんなことを考えていて、だけど、どちらもいることがほとんどで、そんなことを考えていると収拾がつかない。

新しいコンセプトの本屋、カフェ、ホテル…若い人が喜び集うことは嬉しいことだけど、そのせいで居場所をなくす人のことを想う。そのせいで薄れてゆく文化や伝統を想う。そうして間をとると表現がいつまでも突き抜けない。コンセプト、コンセプトうるせぇよ。と悪態つきながら、毎日なにか新しいものごとのコンセプトを考えている。

ただつくることがすきで、ただ人となにかを目論むことがすきで、純粋にそのきもちだけでなにかをすることはむずかしい。その想いは、歳をとってさまざまな人の考え方に触れるたびにふくらむ。

そんなことを日々考えながら、でも新しい技術や便利なものの恩恵もしっかりと受けていて、後ろめたいけど、どちらかになど決めなくてもいいのかもしれなくて。なにもかもを自分のなかでジャンルわけしてくくってしまわないように。

見えているものだけを見たらだめ、こわくても。そんなことを自分に言い聞かせながら、いつもびくびくと苦手なものの様子を伺っている。

少数派のくせに繊細で、出る杭のくせに打たれ弱くて、口が悪いのにナイーブで、それなのに多数派に賛同できなかったら、こんなに生き辛い国はない。そういう人間を世間は本当に放っておかない。

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』

人それぞれの欠落と武器を兼ね備えた個性は、どれもエモーショナルで学ぶべきところが必ずあった。そして、外の景色をよく見てみるとクソみたいなことで溢れていたし、没頭できる楽しそうなことでも溢れていた。

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』

競争社会の生きづらさと、だからといってすべて平等にするのは無理があるということ。人の数だけ想いがあって、誰とも分かり合うことなどできない。だから分かりたいともがく。わたしは今日もあなたのことが知りたいと、分かり合えなくても知りたいと貪欲に思っていたい。あなたのことがちっとも分からない、でも一緒にいたい。そんな人にこれまでも出会ってきたから。

デザインだってなんだって、いつもは無理でも、ときどきは世間の流れに逆行して、目立たなくても分かりにくくても、少数の誰かへ強く響くかもしれない、そんなものがつくれたら、いいなぁ。いいよなぁ。そんな風にできたら、誰よりもわたしが救われる。がんばるしかないよなぁ。なんて。

くすくす笑いながら読んでいたはずの若林の本は、気づけばわたしを泣かせにかかっていた。帰り道。

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