見出し画像

授業とコンテンツ

英語科教育法I第6回の振り返り。

今回の模擬授業は高校生に対する「英会話」の授業。
授業でチラッと紹介したコミュニカティブ・アプローチに興味を持ち、あまり受験を意識した授業の行われない高校を想定した授業。

なお、この英語科教育法Iは履修者と聴講者を合わせて5名の授業なのだが、先週からゲストで生徒役をしてくれる学生を募っており、1~3年生の計6名が集まってくれたため、生徒役は10人に!
対話型模擬授業検討会を実施する人数としては上限ギリギリという感じだったが、そもそもうちの教職課程はその存在すら学生にまともに認知されていないレベルだったりするので、色々な繋がりで教職を取らない学生が英語科教育法の授業に遊び・・に来てくれるというのがすごく嬉しい。

授業の主たる活動はハンバーガーショップでの客と店員のやり取りで、先生の用意した原稿をベースに自分の注文したいものを言ってみるという活動。
この活動に対する評価・改善点については、今後色々と学び、観て、考える過程を通して授業者自身が考えてくれれば良いかなぁと思う。

笑えるコンテンツと笑えない生徒

それよりも今回の模擬授業を観ながら私が考えたのは「コンテンツ」についてだ。

今回の授業では最初に「英語を話すことへの不安感を取り除こう」と日本テレビ『世界の果てまでイッテQ』の海外ロケでの出川哲朗の英語(?)でのやりとり、いわゆる「出川イングリッシュ」の動画をまず見せた。
先生は「文法とか分からなくても単語を並べるだけでも通じることもあるんだよ」と、英語への自信をあまり持っていない生徒たちに優しく声をかける。

更にもう一つ、フジテレビ『関ジャニ∞クロニクル』の「英語伝言ゲーム」のコーナーの名シーンを見せる。(これはめちゃくちゃ面白いのだが、多分無断転載だと思われるので動画のリンクは貼らない。以下に説明を書くが、動画を見た方が100倍面白い。)
関ジャニの横山くんが"Is it possible to return this?"という英語を「(イズィ、)パスポート取りたいんです」にしか聞こえなくなってしまうのだが、次のネイティブスピーカーにダメ元で「イズィ、パスポート取りたいんです」と聞こえたままを真似て言ってみたところ、そのネイティブスピーカーが"Ah! Is it possible to return this."と見事英語に変換してみせたというシーン。関ジャニ大好きな後輩がこの動画をきっかけに発音指導に関する卒論を書いていたこともあり、私もなんとなく愛着のある動画で、機を見て授業でも使いたい素材の一つだ。この動画を見せた先生は「もしかしたら日本語でも聞こえたまま言ってみたら伝わることだってあるかもよ」と生徒に伝える。

これら二つの動画はどちらも見方によっては「日本人の英語の出来なさ」を嘲笑うような文脈でも使えてしまうのだが、今回は既述の通り生徒の英会話への不安感を取り除くために見せていた。

そして、英語で話して盛り上がってほしい先生としては「出川と関ジャニで笑ってほしい」という願い(WANT)も当然ある。

しかし、動画の視聴中、10人の生徒からの笑い声は一切起きなかった。
先生役の学生の方からはクスッと笑っていた人も確認できたそうだが、それでもクラス全体にこれから英語の授業を楽しもうというポジティブでエネルギッシュな空気は生み出せなかったと言わざるを得ない。

コンテンツとしては十分面白いはずのに、なぜ笑いが起きなかったのか。

検討会での生徒のWANTやFEELを見てみると、全体的にネガティブな言葉が並ぶ。

生徒役が色々やってくれたので板書がカオス

「眠たい」「動画に興味ない」「めんどくさい」「だるい」「話したくない」など、先生としてはなかなか辛い状態だ。(生徒役を徹底して演じてくれているのがよく分かる。)

ただ、その中にもはあって、「おもしろいけど声は出せなくて、笑いをこらえた」と言ってくれた学生がいる。それも複数いたのだが、彼らに声を出して笑ってもらうには何が足りなかったのか。
そして、もしそこでクラス全体が、あるいはクラスの何人かだけでも、声を出して笑えていたとしたら、その後の授業はどう変わっただろうか。

人が笑うとき

私は「笑い」について何も専門的に学んでいないし、別に笑いを頻繁に取れるような面白い人間でもない。
だが、M-1グランプリの動画を本当に何十回も見返すぐらいには「お笑い」を愛している人間ではある。M-1グランプリをお笑い特番ではなく、感動のドキュメンタリーとして観るタイプの人間だ。

そんな私は授業を割とエンターテイメント化して捉えることがある。
もちろん、こちらがステージで学生が観客という単純化した構造で捉えているわけではないが、「この活動でまずは肩の力を抜いてもらって、その後の活動を活発にできるようにしよう」と心掛けたり、「授業の前半にちょっと伏線を張って、後半で回収しよう」みたいなことを楽しんだりしている。

M-1グランプリに興味のない人には何も伝わらないかもしれないが、M-1グランプリ決勝でネタがウケるかどうかはトップバッターの出来にかなりかかっている。
昨年(2021年)のトップバッターはモグライダー。「美川憲一さんって、気の毒ですよね」という秀逸な掴みから入るネタで会場を大いに揺らし、緊張感のあった観客を笑いやすい状態に変えた。
(M-1決勝ネタ動画は5/31までの期間限定公開)

2年前(2020年)のM-1では、、いやM-1の話はもういいか。

プロの漫才師、それも日本のトップ10に入る漫才師たちが集うM-1グランプリ決勝でも思ったように笑いが起こらないことがしばしばある。
プロが一年で一番本気で客を笑わせに行き、そして客も仮にもお笑いを見に来ているのだから笑いたくて来ているはずなのだ。
それでも場の空気というものは本当に難しいもので、ネタの面白さがそのまま笑いの量には繋がらないのだ。

日本一面白い漫才師たちでもそういう苦しみを味わう。
ということは、(笑いの素人である)教師が授業で生徒たちに笑ってもらおうだなんて、本来至難の業なのである。

生徒たちは楽しく過ごしていた休み時間をチャイムの音ひとつで無慈悲に強制終了させられ、それでもまだ喋り足りないからと前後左右の友人と、時には遠くに離れた友人ともお喋りを続ける。
そこに教師が一方的に割り込み「はい、授業するよ。切り替えて」と言う。

そのまま「じゃあ、今日はちょっとみんなに動画を見てもらいます」と言って動画を流す。

やはりそれでは出川哲朗や関ジャニをもってしてもなかなか笑いを生み出すことはできない。

お笑いと授業の決定的な違い

「日本一の漫才師でもスベるんだから教師には笑いなんて取れない」などということを言うつもりはない。
お笑いと授業には大きな違いがある。それは「関係性」と「参加」だ。

まず関係性について、教師と生徒は、芸人と観客ではない。
教師と生徒はお互いに顔と名前を知り、人柄をある程度理解し、昨日までも一緒の時間・空間を共有してきた人だ。
もちろんそこにあるのは好意的な気持ちだけではないだろう。
それでも赤の他人ではないからこそ、一人一人とのコミュニケーションを取ることができる。

そして参加。
お笑いの観客はネタを見て笑うことしかできない。勝手に客席からツッコミを入れたり、私語をスタジオやホールに響かせたりはできない。上手い漫才師は観客とのコミュニケーションをネタに盛り込むことができるが、それでも芸人から振られたことに短く答えるぐらいが観客にできることの限界に近い。
一方、授業では生徒が授業に参加できる。参加できるというか、本来授業は教師と生徒が一緒に対等な関係性の上で作り上げるものであるべきで、出来れば「先生の作った授業に参加させてもらっている」という感覚すら持たせたくない。(私のスタイルであって、「正解」ではない)

この二つのことを無視したままコンテンツを提示しても、なかなか笑いやワクワク感は生まれない。
そもそも生徒たちは「授業」と名のつくものに対して基本的にワクワク感など抱かないのだということを我々は強く自覚すべきで、そんな生徒たちの感情に波を起こすには相当な工夫が必要だという覚悟をしておきたい。

今回の先生役の学生が選んだ「英会話」という活動は、学習者と教師、そして学習者同士の「関係性」が非常に大事になるし、学習者の「参加」がより強く求められる。

内容的には容易な語彙・表現を扱ったが、実は授業としてはそれだけ難しい挑戦だった。

授業をコンテンツ化したら終わり

この記事では基本的に今回の学生の模擬授業で使われたような動画のことを「コンテンツ」と呼んできた。途中漫才の話もしたが、漫才もコンテンツだ。
今、我々の身の回りには歴史上最多のコンテンツが存在すると言って良いだろう(「歴史上最多」はしばらくの間、ずっと更新され続けるはずだ)。
YouTube、Netflix、TikTokをはじめ、挙げはじめたらキリがないほどのコンテンツが世の中に溢れている。

そんな楽しい楽しいコンテンツ天国(もしかして地獄?)で生きている我々にとって、単に「授業見せられる・受けさせられる」ことが面白く感じられることなんてほとんどない。
オンラインでの一方向授業がほとんど悪夢だった日々が鮮明に思い出される。

今回の模擬授業はコミュニカティブ・アプローチに興味を持って挑戦してくれたものだが、同時にこれまでの英語科教育法I及びIIIを通して、最も生徒を観客にしない努力をした回でもあったと言えるかもしれない。
(文法やリーディングではなく英会話をやろう、という意味では決してない。それは本当に違うから誤解のないように。)

ただ、その努力をどう結果に結びつけるか。どういう心持ちで、どんな場を作っていけばいいのか。

授業がコンテンツ化して先生から生徒に提供するものになってしまうと、その中で扱われるコンテンツも生徒にとって冷めたものになる。

日常で使うことのない言語を学ぶ外国語科の授業にとって、コンテンツは絶対に味方につけたいものだと思う。

だからこそ、せっかくのコンテンツを最大限活かしたい。
その上で、自分の授業はコンテンツ化しない方が多分いいよ、という話。


ちょっと今日は書きたいことがあまりまとまらなくて、読みづらいコンテンツになってしまいました。反省。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?