爆発しない岡本太郎
引越し前の散策
川崎は高津区に住んでいる僕は、近く引っ越すことになったので、先の週末はパートナーと近場でまだ行きそびれていたところ、生田緑地へ行くことにした。
3年もこの地に住んでおきながら行ったことがなかったことは、のちになって後悔するわけだけれども、その原因となった岡本太郎美術館の存在は、実はこの緑あふれる公園に至るまではほとんど忘れていた。
とはいえ僕はそれまで岡本太郎を意識したことはほとんどなかった。
僕の記憶の中にある直接的に体験した岡本太郎といえば、小さい頃に母親に連れて行ってもらった今はもう閉まってしまっている渋谷の「こどもの城」の前にあるモニュメントくらいだった。
そしてそれに加えるならせいぜい高津区の世田谷区への玄関口にあたる二子新地にあるモニュメントと、その地でひっそりと持ち上げられている太郎の母・岡本かの子の存在だった。
ところが、去年の秋頃から美術鑑賞にちょっとずつはまってきた僕にとって、この美術館で見た岡本太郎の絵は、ちょっとした印象を僕に与えたのだった。
爆発的にメッセージを伝える絵画
全体的に絵は、素人目に見ても傑作と言いたくなるようなものばかりだった。
どの絵も、じっと見つめていると、なぜかしら、自分の中からふつふつと興奮で胸が昂ってくるのがわかる。
岡本太郎独特のあの配色と、あの奇妙な形から、彼が絵筆を握り、キャンバスに向かっているときの興奮を感じ取ることができるようだ。
それはまさに、「芸術は爆発だ」と彼が言った通りの興奮だ。
この体から溢れてくるような勢いを、岡本太郎はキャンバスに描ききったのだろう。
ところが、である。
これはモニュメントなど立体物になると様子が変わってくる。
モニュメントには、確かに岡本太郎独特の世界観が現れてはいるのだが、そこにはもはや爆発的な訴えかけるような強さを感じることは僕にはできなかったのだ。
むしろ、モニュメントにおいては、岡本太郎の感性は内へ内へと収斂していってしまったようにさえ、僕には感じられた。
モニュメントは可能性の全てを発揮していない
なぜに絵画で爆発的だった印象が、モニュメントにおいて内に収斂したか、それは手法の違いによるところが大きいと思う。
絵画は平たい一枚のキャンバス上の視覚的表現でしかないが、立体物は「見る」だけでなく触ったり、よじ登ったりと絵画以上に身体的に関われる。
しかし少なくとも 岡本太郎美術館にあった立体物は、いくつか置かれている椅子以外、ほとんど「見る」ことでしか関われなかった。
また、たとえ身体的に関われたとしても、身体に与える刺激は日常のそれとあまり変わることはなく、作品はどこまでも「見られるための」作品だった。
つまり、岡本太郎は、絵画においてはその可能性を極限まで発揮しようとしていたにも拘らず、立体物においては可能性の全てを発揮するどころか、ただ絵画の手法をそのまま踏襲するだけで、その試みすら行なっていないのである(この傾向はおそらく大作「太陽の塔」の内部もそうであると考えられる。一体「太陽の塔」の内部のどこに、視覚以外の感性を積極的に刺激しようとする仕掛けが存在しているというのか)。
表現手法を考えろ
ただ、こうしたことは岡本太郎に限らず、例えば宮崎駿など、ほかのトップアーティストたちにもよく見られることである(ジブリ批判については他記事で記述済み)。
だけども物事には常にそれぞれに合った最適解が存在し、一つとして同じものは無い。
特に、こうした芸術的な活動は、絵画にしてもアニメにしても、はたまた僕が関わる小説にしても、そのどれもがただの一表現手法にしか過ぎない。
そしてそれらの表現手法の下にあるのは、ほとんど常に、誰かに何かを伝えたいという情熱だ。
だとしたら、その情熱を伝える方法は、伝えたい内容によって、いちいち変えてしまってもいいではないか。
どの場面においても、自分の分野にこだわる必要はないではないか。
小説家が音楽をやろうが、アニメーターがボディビルをやろうが、それが自分の伝えたいことをより強く、忠実に、また効果的に伝えることができるのなら、それでいいのである。
創作活動において、その手法は枝葉末節だ。
一にも二にもまずは自分が伝えたいことは何であり、それが沸き起こったら、それを伝えるにはどの手法が一番いいかを今一度改めて考える必要があるのだ。