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自転車を漕ぐヒト

正直に言うと小2の終わりくらいまで自転車に乗れなかった。それが少しコンプレックスだった。友達と遊ぶにしても小学生になるとみんな普通に乗れるので自分だけ歩きで遊びに出かけることがあった。
補助輪付きの自転車に乗る姿を友達に見せるのは恥ずかしかったのでそうしていた。今思うと結局自転車に乗れないことを晒しているじゃないかと思うけど、当時の自分にとっては補助輪付きで乗っている姿を見せるくらいなら徒歩移動の方がまだマシだったのかもしれない。

最近、読書会でベイトソンの『精神の生態学へ』の中の学習理論に関する文章を読んでいる。その中で学習のタイプ分けがされていて色々な概念が出てくるのだけど、その中で印象的だったのが「試行錯誤(trial and error)」の認識と発生が学習の段階に大きく関わっているというものだった。
要するに選択した行動に対して間違いを間違いだと認識して改善・修正していく中で『学習』が発生するということだ。試行錯誤が生じない習慣・パターン化されたモノは「ゼロ学習」と呼ばれ、特定の選択肢の中から選ぶ変化を「学習Ⅰ」、選択肢群の変化を「学習Ⅱ」、選択肢群を含む系の変化を「学習Ⅲ」、さらにその学習Ⅲの変化を「学習Ⅳ」とベイトソンは名付けている。

受験勉強って学習だろうか。問題に関して答えが必ずあり、選択肢または解法を覚えてそれを使って問題を解く。結局クイズみたいなパターン暗記になってこないだろうか。少なくとも選択肢は限られてくる。最初は考えて解いていたものがだんだん考えなくても解けるようになってくる。テストで一定の点数を取れるようになればそれでいいだろう。学習はそこでストップする。
しかし、現実の問題には往々にして答えがない。そうなると選択肢を変えるのではなく、選択肢の選び方・考え方を疑って変える必要が出てくる。そしてこの作業は面倒くさいし、終わりがない。考え方の考え方の考え方…
また、今での自分や周りの環境からズレることになるのでメンタル的にも大変だ。

深くは勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方です。
状況にうまく「乗れる」、つまり、ノリのいい生き方です。
それは、周りに対して共感的な生き方であるとも言える。
逆に、「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、それは言ってみれば、「ノリが悪くなる」ことなのです。
深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。

千葉雅也『勉強の哲学 増補版』 p.14

1回も転ばずに自転車に乗れるようになることはできるだろうか。口頭で説明されたり、映像を見ただけでパッと乗れるようになるだろうか。ほとんどの人は転んで膝を擦りむいたりケガするんじゃないだろうか。
失敗は苦しいし、時間がかかる。でも、転ばないで自転車に乗れるようになれないように、試行錯誤しない学習はありえない
変化していく中で傷つかないでことは難しい。自転車に乗って前に進むということは今いる場所から移動し、周りの環境を置いていくということになる。変化は今そこからの切断を意味し、切断は傷口をつくる。

思考して変化することは孤独を生み出すかもしれない。
しかし、人は永遠に同じ場所に留まることはできない。いつかは自転車に乗らなければならない瞬間が来る。変化しようとするとき、ヒトは必ず「試行錯誤」という痛みを伴う過程(傷つき)を経験する。
結局のところ、真の学び(考えること)とは「安全な場所」から一歩踏み出す勇気を持つことだ。それは時として転倒や擦り傷を伴うかもしれないが、その経験を通じてこそ、本当の意味で「前に進む」ことができる。
自転車に乗れるようになった時の喜びは、単なる技術の習得以上の意味を持っている。それは、自分自身の限界を超え、新しい世界への扉を開いた証であり、その先にある孤独さえも受け入れる覚悟の始まりなのかもしれない。

ヒトは新しい景色を見るために自転車を漕ぐ。


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