読書メモ:『ホモ・ルーデンス』、『遊びと人間』、『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』~それぞれの遊びの定義~
『ホモ・ルーデンス』ヨハン・ホイジンガ
ホイジンガの遊びの定義
自由な行為
実生活外の虚構
没利害
時間的・空間的分離
特定のルールの支配
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ
カイヨワの遊びの定義
自由な活動
隔離された活動
未確定の活動
非生産的活動
規則を持った活動
虚構の活動
カイヨワによる遊びの分類
『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』ミゲル・シカール
シカールによる遊びの定義
遊びは文脈に依存する(contextual)
遊びはカーニバル的なものである
遊びは流用的である(appropriative)
遊びは攪乱的である(disruptive)
遊びは自己目的である(autotelic)
遊びは創造的である(creative)
遊びは個人的なものである(personal)
番外編
『ひとりあそびの教科書』宇野常寛おけるひとりあそびのルール
人間以外のものごとに関わる
「違いがわかる」までやる
「目的」を持たないでやる
人と比べない、見せびらかさない
ChatGPT君によるまとめ1
ホイジンガとカイヨワについて
『ホモ・ルーデンス』では、ホイジンガは遊びを「文化の真髄」として描写しています。彼にとって、遊びは人間社会の根底にあり、芸術、神話、儀式など多くの文化的表現の原動力となっています。ホイジンガは、遊びが社会的な規範や秩序を形成する基礎であり、人間の行動と思考の範囲を定義すると主張しています。
一方、カイヨワの『遊びと人間』は、遊びが人間の創造性と自由を刺激し、新しい可能性を開拓する力を持っていると主張します。カイヨワは遊びを「自由な行為」、つまり制約や目的から解放された行為と見なし、それが人間の想像力や創造力を触発すると考えています。遊びは個々人の能力を伸ばし、社会的な枠組みを超える新たな可能性を探求する機会を提供します。
両者の見解は一見相反するように思えますが、実際には補完的な関係にあります。ホイジンガは遊びが社会的な枠組みを形成し、カイヨワはその枠組みを超越する可能性を強調します。ホイジンガの視点からすれば、遊びは社会の基盤を形成し、カイヨワの視点からすれば、遊びはその基盤を超越する力を持っています。
これらの本を読むと、遊びが人間の生活において重要な役割を果たしていることが明確になります。遊びは単なる余暇の活動ではなく、社会を形成し、個々人の創造性を引き出し、新たな可能性を探求するための手段です。遊びは、私たちが世界を理解し、新しいことを学び、それに対応する能力を開発するための方法を提供します。
それぞれの著者が強調する遊びの側面は、人間性の異なる面を強調しています。ホイジンガは遊びを通じて社会的な秩序と共同体を形成する力を強調し、カイヨワは遊びが個々人の創造性と自由を促進する方法を強調します。この2つの視点は、遊びが人間の生活にどのように深く組み込まれているかを示しており、それぞれが私たちの遊びについての理解を補完し合っています。
結論として、『ホモ・ルーデンス』と『遊びと人間』は、遊びが人間の生活と社会に及ぼす影響について異なる視点から洞察を提供します。ホイジンガの社会と文化の構造に対する遊びの影響と、カイヨワの遊びが個々人の創造性と自由を促進する能力は、遊びが人間の生活にとって極めて重要な要素であることを明確に示しています。遊びの価値はその楽しさだけにとどまらず、より広範で深い意味を持つことが、これらの著作から明らかとなります。
私の考え:ホイジンガとカイヨワについて
ホイジンガの文章で印象的なのは、『遊びと人間』の文庫版の解説でも触れられているが、プラトンの『法律』における池の一説を引き、
「遊び=聖なるもの」の図式を提示していることである。
『遊びと人間』に収録されている『遊びと聖なるもの』の中でカイヨワはこの同一視を批判し、新たに「聖なるものー世俗ー遊び」のヒエラルキーを提示する。
しかしながらカイヨワもホイジンガを批判しながらその聖なるものを越えるものは示しせていない印象がある。
この遊びと聖なるものの関係はヨゼフ・ピーパー『余暇と祝祭』を読んでいる中でも気になったことなので今後も考えていきたい。
ChatGPT君によるまとめ2
シーカルについて
シカールの『プレイ・マターズ』は、遊びの理論に新たな視点を提供します。彼は遊びを単に楽しむ行為と捉えるのではなく、遊びを通じて個々の表現と創造性が活発化する場としています。彼は「全ての計算は遊びである」と主張し、遊びを通じて新たな世界観や思考の形成が可能になると説明します。また、シカールは遊びの規範として、独自性、カーニバル性、個人性、表現性、自己目的性、破壊性を挙げ、これらの要素が遊びによって社会に与える影響を強調しています。
ホイジンガとカイヨワが遊びの社会文化的な側面に重点を置いているのに対し、シカールはより個々の表現と創造性に焦点を当てていることが明確になります。シカールは、遊びが個々の創造力を活性化する場としての役割を強調し、遊びの中に表現の場としての可能性を見出しています。これは、ホイジンガとカイヨワのように遊びを社会文化的な現象として見るのではなく、個々の表現の場として遊びを理解するという新しい視点を提供します。
シカールの視点は、現代のテクノロジーとコンピュータとの相互作用の中での遊びの役割について特に強調しています。彼は「すべての計算は遊びである」と主張し、人間がコンピュータをプログラムするすべての行為が、事実上、自分たちの好きなように万能チューリングマシンを模倣するための遊びであると説明しています。彼によれば、計算を真に「人間的」にするためには、この表現のための帰属の可能性を実現する必要があります。つまり、私たちと「遊ぶ」コンピュータを創り出すことを意味します。
シカールの視点は、ホイジンガとカイヨワの視点とは一線を画しています。彼は遊びが個々の表現の場としての重要な役割を果たすことを強調し、遊びが私たちが世界を理解する方法に大きな影響を及ぼすと主張しています。それは、遊びが単に楽しみや娯楽のためのものではなく、私たちが自己を表現し、新しい考え方や視点を形成するための重要なツールであるという視点を提供しています。
しかし、シカールの視点には一部問題点も存在します。その一つは、遊びの規範として、独自性、カーニバル性、個人性、表現性、自己目的性、破壊性を挙げているものの、その中でどの要素が最も重要であるのか、またそれらがどのように相互に関連しているのかについては明確に説明していない点です。また、遊びの形式として重視しているものと、重視していないもの、または無視しているものについては明確に議論していません。また、彼の遊びのレトリックがどのように政治経済によって可能にされ、制約されているのか、表現のための帰属が実際に有効な政治的介入であるか、または今日最も必要な介入であるかどうかについても問いかけていません。
また、『プレイ・マターズ』は、ディオニューソス的なマニフェストとアポロン的な論文との間の緊張を内包しています。シカールは本書で大胆な主張を繰り返し行いながらも、戦略的に後退することがしばしばあります。そのため、『プレイ・マターズ』が読者にどの程度その二つの極を統合することを達成できるかが、本書の最終的な評価になるかもしれません。
全体として、『プレイ・マターズ』は遊びの理論に対する新たな視点を提供し、その視点はホイジンガやカイヨワの考え方とは異なる重要な視点を提供します。しかし、シカールの視点は一部問題点も抱えており、その視点がどの程度現実の遊びの経験や理論に対して有効であるかについては、さらなる議論が必要です。
私の考え:シカールについて
シカールは遊びを「存在のモード」の一つとして考えている。(ホイジンガやカイヨワの形式的な遊びの定義に批判的である。)そしてChatGPTのまとめでは何故か抜けているが、遊びの定義(特性)の内、流用的であることを重要ししているのは本文を読めば明らかである。
そして形式だけではなく、おもちゃや遊び場などの物質・空間的な側面を重要視していることも印象的だ。その形式批判はデザインまでに及ぶ。
遊びとは文脈を乗っ取り作り変えてしまう創造と破壊のダンスのようであるといえる。このような遊びのロマン主義的理論は危うくもありながら魅力的であると思った。
まとめ
ざっと全体を振り返ると遊びとは自由で創造的で脱目的的(自己目的的)な行為であるといえるだろう。それを文化の基盤とみるか、存在のモードとみるかなどの視点の違いはあるものの、おおむね自由で創造的な行為であることは全体にいえることではないかと思う。
それを聖なるものとみなすのか、本来的な人間の在り方とみなすのか、ここら辺は「余暇」の問題とも繋がってくると思うので、今後深掘りしていきたいと思う。