空海の言葉を関西弁超訳してみたら、いろいろ見えてきた。
高野山に1年ほど住んでいました。
空海が1200年ほど前に開かれた
この密教の修行の場を体感してみたかったのです。
興味を持ち始めたきっかけは、
司馬遼太郎の小説でした。
空海の歩んだ人生を辿りながら、
膨大な資料を元にした解説を交えて
じわじわ物語が進んでいく。
かろうじて空海の見た「風景」を
浮かび上がらせようと試みた小説でもあり
その宇宙の普遍的真理を求める様が
圧倒的に面白くて、心を打たれたのです。
それほど興味の尽きない「空海のお話」は
文章に書こうとすると、
踏まえたいポイントが多すぎるし
未消化の個人的な体験も混在してきて
なかなかまとめられず苦心していました。
そこで偶然ひらめいたのが
「関西弁超訳」という形式です。
空海が書物に遺した言葉を
解説本を通して理解しようとするとき、
はっきりとわからないながらも、
いったん自分の肚に落としてから
「内なるお大師様」に問いかけてみて
かろうじて意味がほんのりわかる、
というプロセスを踏んでいる気がしています。
そこで返ってくる答えは、
だいたい関西弁で聞こえてくる感覚なので
その「内なるお大師様」を
そのまま文章にしてみるのはどうだろう。
おこがましい気がするし
正確な翻訳ではないけど、
僕にとって存在する「お大師様」は
こんな感じで言うてます!っていうのを
表してみたくなりました。
・・・
個人的な動機をながなが書いたので
回りくどくなってしまいましたが、
「お大師様の言葉を味わってみてほしい!」
というのが第一の本音です。
そのために、僕にとってもわかりやすい
関西弁で表してみたのと
原文の美しさを損なわないよう
そのまま書き写しています。
また超訳でもありますので、
原文にはない言葉も補っています。
【原文】(引用元)
関西弁超訳
・・・僕の感想
という順に記載しています。
ほな、空海が表した
めっちゃ美しい言葉の世界を
ご一緒に嗜みましょう。
元にさせて頂いたのは
苫米地英人「超訳 空海」PHP文庫です。
※表紙画像は金剛峰寺収蔵、問答講本尊像より
<1>願い
宇宙も、ぜーんぶの生命も、悟りの世界も、
心が生み出してるんやと
みんなが知ったとき
わいの願いが叶うんや。
・・・
かっこよすぎます。
膨大な書物を遺された裏には、
そんな思いがあったのですね。
及ぶ限り、お大師様の願いに添えるよう
尽力したいと感じています。
<2>曼荼
お釈迦さまの悟りの世界っちゅうのは、
姿や形はあらへんねやけど、
曼荼羅を通して見ることができんねん。
・・・
曼荼羅により深く興味を持ったのは、
この言葉がきっかけです。
あの不可思議な美しさに
お釈迦様の悟りの世界が現れているなんて
深淵すぎます。やばいっすね。
<3>行蔵
道が示されたり、示されへんかったり、
っていうのは無いねん。
人によってその教えは去ったり来たりするもんや。
それは財宝がなかなか見つけられへんような
冒険旅行と似てんねん。
・・・
僕は、道を示してくれるような、
師匠みたいな存在を求めていた時期があって、
なかなか見つからず悩んだこともありました。
「冒険旅行」というのは著者の苫米地さんによる
超訳ではありますが、絶妙な付け加えです。
行ったり来たりする迷い?みたいなのは
宝を得るための冒険旅行の一部だと考えると
過程も楽しめるようになる。
<4>通力
限りない幸せとか徳っちゅうのは、
求めへんでもおのれに備わってるんやから、
えげつないほどの不思議な力は、
わざわざそうしようと思わんでも
すでに持ってんねんで。
・・・
「すでに持ってんねんで」とか
「持ってて気づきにくいだけやで」っていう内容は
繰り返し聞かせてくれています。
見えなくしているのは、
だいたい自分であるということも。
<5>書
昔の人は道を学ぶとき、
利害を計算したりせえへんかったけどな、
今の人は書物を読むときでさえ
地位とゼニのことばーっかり考えてるみたいやな。
・・・
お大師様の時代からそうやったんですか。
大学にいるとき、とくに強く感じてました。
否定的なニュアンスで受け取ってしまうのは、
僕がそういう利害計算で物学びする人のことが
あまり好ましく思ってないからなのか。
<6>文
創作したい思たときは、
そのタイミングに乗ってつくれや。
アイデアが思うように浮かばへんときは
すぐにやめてしもて、
心がくたびれへんようにしいや。
いつもこんなふうに心を働かせとったら
想像力が枯れてまうことはあらへんし、
精神が疲れてまうこともあらへんよ。
・・・
物凄い量の書物を遺したお大師様の言葉だから
めっちゃ身にしみます。
あれこれ考えすぎてまうより
休んでしもたほうがええこともあるんですね。
<7>心不可得
心っちゅうんはな、
内にあるわけでもあらへんし、
外にあるわけでもあらへん。
またその中間にあるもんでもないねん。
・・・
ちょっと何言ってるかわかんないです。
うーん。
心がどこにあるかという問い自体が
少しずれてるいうことでしょうか。
でも次の言葉を聞いたら、なんとなくですが
感じることができます。
<8>妙
仏様と俺らの心が
お互いに通じ合う働きっちゅうのは
絶妙やな。
・・・
「仏と私たち」を付け加えて超訳されたのは
著者の苫米地さんですが、これでかなりすっきり
意味が通ります。
内にも外にも中間にもない心は
仏と通じ合う働きをするとき、
絶妙に存在が現れるって感じですか。
<9>相応
ヨーガは漢語では「相応」と訳すねん。
その言葉のとおり、仏様と私たちが
表裏一体であるってことが、
「即身成仏」の「即」の意味やねん。
・・・
ただちに、すぐ、って意味じゃなくて、
相応して仏に成る。
表裏一体ということは、
やっぱり「すでに」一緒にあって
気づいてないだけ、ということでしょうか。
<10>夢夜
哀しいて、哀しいて。言葉では
言い表されへんほど、哀しいて、哀しい。
悲しいて、悲しいて。
心で表しきられへんほど、悲しいて、悲しい。
悟りを開いたら、どんなもんにも
惑わされへんいうけど、
実際に愛する人との別れっちゅうのは
涙を流さずにはいられへんかった。
・・・
亡くなった弟子・智泉のために詠んだ言葉です。
お大師様の愛情深さを感じて、
勝手ながらその人間らしさに
親しみを覚えました。
抽象的で宙を舞うような概念を扱う一方、
こういう感情にせまるような情緒的な文章も
少なからず遺されています。
個人的に好きなところです。
・・・
まとめ
ここまでお読みくださって
ありがとうございました。
書き進めているあいだ、
これでええんかな、
軽くなってしまわへんかな、
という不安と戦いながらも
「内なるお大師様」の実感が
だんだん強くなってくるようで、
不思議な感触が湧いていました。
あなたが、どんな感想をお持ちか
気になるところです。
この記事を書き始めるのに
背中を押して頂いたのは
そば茶さんからのリクエストです。
神社で偶然ビー玉を見つけた帰り、
何気なく手に取った空海の本に、
そのものずばりの文章と出会われるという
不思議なご縁を感じるお話を読ませて頂きました。
この場を借りて感謝申し上げます。
たぶん、お大師様はそう遠くないところに
いらっしゃって、折に触れて
何かのサインやきっかけを
くださるんじゃないかな。
この記事もその縁の一部だと思うし、
また何かのきっかけとなることを
願っています。
南無大師遍照金剛
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