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小泉信三『読書論』-本を読まない人には刺さらない本-

まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。

0. 導入
どうしてこの本を知ったのか忘れてしまったが、何かの情報で小泉信三という名前を見て、そこから調べたら行きついたのだと思う。私は、先人の言葉を引用するときは一言一句正確に引用すべきだと考えている。本書の一部を抜粋する。

(工学博士である谷村豊太郎は)よく世間の実業家方面から申し出される、すぐ役に立つ人間を造ってもらいたいという註文に対し、すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ、と応酬して、同大学において基本的理論をしっかり教え込む方針を確立した。すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。人を眼界広き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を与えてきた古典というものは、右にいう卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であろう。しかしこの、すぐには役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められて来たのである。

小泉が言ったのは「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本である」である。わかりやすいニュース解説でおなじみの池上彰は講演会にて以下の発言をしたようだ。

「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」これは、かつて慶應義塾大学の塾長であった小泉信三の言葉でもあるんですね。「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」。だから、「すぐ役に立たないようなことを教えれば、生涯ずーっと役に立つ」。こういう考え方が、今の「リベラルアーツ」という考え方になってきています。

細かい論理的な議論はおいておく。小泉の言葉を一般化すれば「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」となるが、小泉がそう発言したという説明は(形式的には)誤りである。私は、池上の説明と本書を見比べて「違うじゃねーか!」と思った。不思議なことに、誰かの言葉や本を引用すると話に説得力が生まれるように感じる。私も含めて、ほとんどの人は自説を補強するために都合のよい言葉をチェリーピックしているはずだ。気になったら自分で調べてみる。引用者が、引用元の意図や主旨を捻じ曲げていないか。これは、読書に限らず他人が信頼できるものであるかを確かめることができる一つの方法である。

1. 本を読むか読まないか、それが問題だ
前回は『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を取り上げた。俗にいう逆張りのようなタイトルで目を引いて、読書のデメリットを説明し、しまいには読書をしなくてよいと説く。一方で、本書は王道を往き、本を読め、とりわけ古典的名著や大著を読めと説く。なるほど一理ある、と直感的に思えるのではないだろうか。しかし、少し考えると不都合な場合が生じることも見えてくる。例えば、マルクスの研究者が『資本論』を読むことは必要であり、結果として古典的名著に触れたことになる。しかし、経済学者や経済学を志す学生全員に『資本論』を読ませる必要はない。ましてや専門ではない一般の人が『資本論』を読む必要は、ふつうはない。また、物理学を勉強しようと思っている人に対して、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』を勧める人はそういない。中学校や高校の参考書を勧めた方がはるかによい。
「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本である」という宗教を信奉して『資本論』や『プリンキピア』に手を出すことは危険である。古典的名著というものは、その筆者がどのような人物であるか、また書かれた時代背景などがわからないと、それこそ文字を追っただけになりかねない。古典的名著でなくともすぐに役に立たない本を読みたいなら、マンガでいい。マンガはその内容がすぐに役に立つわけではないし、時間が経ってから味を感じることも少ない。多くの人は古典的名著を咀嚼、消化することは難しい。気になる本があるなら背伸びしてアタックするのはいいだろうが、「古典的名著を読め」と推奨することは私にはできない。

2. 万国の一般人よ、団結せよ!
私はマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』を通読したことがある。文字通り通読しただけであり、彼らが何を言っているのかはほとんどわからなかった。結局覚えているのは最後にある名文句「万国の労働者よ、団結せよ」だけである。彼らがこの文句に至った道筋を理解することなくミームとして覚えてしまった。覚えていないなりにひとつよかった点を挙げるとするなら、自分が生きる時代とは異なる時代の空気に触れることができたことである。自分がマルクス・エンゲルスの時代に生きていれば、彼らが『共産党宣言』で何を言いたかったのか感覚としては理解できたと思われる。それは、『共産党宣言』が時代の空気を反映しているからだ。私は彼らの主張はほとんどわからなかったが、何か強い思いを伝えたいという気概は感じられた。古典的名著や大著を読むことに対しては、このような体験をすること自体が一つの意義であると考えておいた方がよいかもしれない。

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