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日本人とは何か。心の考古学から読み解く 『アースダイバー 神社編』(中沢新一)

『アースダイバー 神社編』(中沢新一)

僕たちはずっと知りたいと思っている。日本人とは何かということを。それは私は誰か、何者かということにも通じるのであるが、日本人とは何か? と問うときは、それとはまたちょっと何かが違う感じがする。それはただ哲学的な存在論の話ではなく、僕たちのこころというものに密接に関係しているからではないだろうか。こころとは何か? と問うと、なぜだか出てくる民族的な形式。形式と呼んでいいのかわからないけれども、でも、そういうこころの型や形みたいなものが現れてくる。人はそれを捉えようとする。それは、やはり形にならなければ捉えどころがないからなのかもしれない。

なぜこころというものがあるのだろうか? どうしてこのこころひとつに僕たちは日々右往左往しなければならないのか。もしこのこころというものをコントロールできたらどれだけ幸せな人生を生きることができるだろうか。そんなことを考える人も少なくないのではないだろうか。僕たちの、僕のこころのはずなのに、なぜだかうまくコントロールができない。むしろそれに振り回されてばかりいる。どのようにこころは成り立っているのだろうか。昔から、人は哲学、心理学、医学…とこころについて考えてきた。そして、中沢新一氏は、こころには層があることを発見したのである。僕たちのこころにも地球のような層があるのだ。それはひとつひとつつながっているものだけではなく、断層と言われるようにはっきりと分かれてしまうこともある。そもそも層というもの自体がつながってはいるけれども分かれているものである。僕たちは時間を軸ととらえて、直線で永遠に続いているように感じている。その連続性が当たり前と思っているが、本当にそうだろうか。たしかに時計の針は止まることはない。でも、そこに本当につながりはあるのだろうか。1秒と1秒の間にある無限の時間。それを数字で表そうとすると断絶が起こる。0と1のつながりはどうやって見出すことができるのだろうか。どんなに小さな数字でそれを表そうとしても、0は0であり、1は1なのだ。そう続いていると思っているものも実は層構造なのかもしれない。僕たちはただ連続していると思い込んでいるだけなのかもしれない。

それであればこころも実は連続ではないのかもしれない。むしろこころがそうだからこそ、あらゆるものは断続なのかもしれないのかも知れない。実はそっちの方がほんとうなのかも知れない。そんなことを考えることは変なことだろうか。おかしなことだろうか。つながっているはずなのにつながっていないもの、その表現できないあわいの中にこそ、こころの本質はあるのかもしれない。

前談が長くなってしまったが『アースダイバー 神社編』では、神社という聖地を題材にすることで、日本人のこころの探究を試みた作品である。本書より引用した方がわかりやすいのでここではそのまま引用させていただく。

アースダイバーの試みをとおして、私は土地の形態とその上につくられる人間の精神構築物とが、たがいに独立系をなしているのではなく、相互嵌入しあうことによって、複雑な統一体をつくっている様子を、あきらかにしようとしてきた。それによって、自然と精神とがある種の類比性 (アナロジー性)をもって、共鳴現象をおこしていることを、日本の都市形成の歴史を題材にしながら示そうとした。
「神社編」と名付けられた今回のアースダイバーでは、その試みをさらに一歩進めて、精神の内部にも自然地形と類比的な「地質学的」な層構造が見出されることを、精神のトポロジー的な表現である「聖地」のありかたを題材にして、探究してみようとした。日本の聖地である神社の内面空間に、いくつもの異質な系が層をなして堆積し、それらの層はたがいに独立しているのではなく、相互に入れ子構造をなしながら歴史的統一体をつくっているのが、それによってよく見えるようになる。こうやって形成されてきた神道には歴史を貫く同一性はなく、いくつもの非連続な断層を含んでいる。その異質な系のあつまりが、独特な統一体をつくりなすことによって、神道というものができている。これは日本列島の地球学的ななりたちとまったく類比的である。ここでも自然と精神の共鳴現象がおこっている。
(『アースダイバー 神社編』中沢新一)

ここで非常に興味深いのは、僕たちは歴史というものをひとつづきのものととらえているが、神道をアースダイブしてみると、いくつもの非連続な断層を含んでいることがわかる。これはいったいどういうことか。僕たちが暮らしているこの大地も層構造になっている。僕たちは知らず知らずのうちにそんな大地の上で生活している。それはただ直線的な歴史だけで語ることはできない。それがまさに精神の内部でも起こっているのである。人のこころでも起こっているのである。

歴史ということに関しても、本書で面白い表現があるので取り上げてみたい。

縄文の土台に弥生人の宗教が混成する形で、三輪山における古層の神道が、かたちづくられた。縄文人の社会のような、利潤が発生しない社会には、解決のできない矛盾というものは生まれない。そこでは神話や儀式によって、小さな矛盾をそのつど解消してしまうことができる。こういう杜会は、 何千年たってもあまり変化しない、「冷たい社会」である。
 ところが弥生人がつくっていたのは、まさに利潤を基礎とした「熱い社会」であったから、どうしても自分では解決できない矛盾を発生させ、その解決はたえず先送りされる。その先送りの運動が、「歴史」と呼ばれるものにほかならない。その意味での「歴史」が、日本で本格的に動き出すのが、 ここ三輪山のヤマトにおいてだった。

「その先送りの運動が、『歴史』である」と。この一文だけを拾ってもわかりにくいかもしれないが、でも、歴史に対する違和感をうまく表現しているのではないだろうか。僕たちにはなぜ歴史というものが必要だったのか。それを一言で表している非常に興味深い言葉である。

そして、面白いのが、そこから歴史というものが始まったのであれば、それまでは歴史というものはなかったということになる。たしかに歴史というのは人が発明したものである。人が生まれなければ歴史もないのだ。いやいや人間がある前から歴史があるでしょうと思うかもしれないけれども、でも、その歴史というものを認識しているのは人間だけなのだ。ビックバンがどうだとか、恐竜時代がどうだとか、人類の誕生はどうだとか、そんなことは人間がつくったものなのである。科学的に証明されているじゃないかと批判する人もいるかもしれないが、じゃあ、ビックバンの前は何があったのか、その前の、その前には何が…。もしまだ知られていない時代があるならば、僕たちはどうしてそれを歴史と呼ぶことができようか。こういうパラドックス陥ってくるのである。

またじゃあその歴史の始まる前の縄文時代とはなんだったのか、弥生時代との違いは、と考える時に、中沢氏は、エネルギーでその違いを表現する。これもまた非常にユニークで面白い。でも、とても筋が通っていると感じるのは僕だけだろうか。

考古学者は縄文文化と弥生文化を、おもに土器の様式によって見分ける。しかし私はここでは、それとは違う、もっと本質的な見分け方にしたがおうと思う。縄文文化と弥生文化は、エネルギー循環の様式の違いによって、はっきり区別することができる。
 縄文人は、自然エネルギーの全体量が、つねに一定に保たれているような世界を生きている。狩猟や採集中心の彼らは、動物や植物に姿を変えて自然エネルギーを、自然の霊力の主(モノヌシ)から全体としては、エネルギー総量の増減はおこらない。
 縄文人の文化は、そのことを意識してつくられている。狩りで鹿や熊が獲れたのは、モノヌシからの贈り物が届けられてからである。人間はそれに応えるために、動物の体を飾り立てて、その霊をモノヌシのもとに送り返す、「送り」の儀式をした。
 獲物をいただくとき、それまで動物の体に包まれていたエネルギーが、解放されて、人間のほうに移動をおこす。動物の殺害は、この移動が実現されるのに必要な方便であった。縄文社会では、自然エネルギーが生物の衣を身にまとうとき、「生」の現象がおこり、その衣を脱ぎ捨てるとき、「死」という現象がおこるにすぎない。だから彼らの死生観では、生死はひとつながりである。

矛盾が生まれる前の世界がどんなものかと表現されている。僕が望んでいる世界はこういう世界なのかもしれないと感じるのである。この矛盾だらけの世界にイライラする自分。でも、矛盾で成り立っているような世界にある中で、矛盾なしには生きられない。そんな時にそういった矛盾のない時代があり、そういった方法があることには驚きを隠せない。もちろんこれは中沢氏の視点ではあるけれども、非常に面白い。その視点で世界を見ることができればもう少し生きやすい世の中をつくることができるのかもしれないと感じる。もちろんこの社会を変えることは簡単ではない。時間もかかる。でも、何かしらの方法があるのではないかと感じるだけで、少しだけ前向きに生きられるような気がする。ありきたりな陳腐な言葉に聞こえるかもしれないが、進歩主義に侵されてしまっている僕たちには、ほんとうの意味での前向きさみたいなものが必要ではないだろうか。進歩したと思っているのに、人は全然変わってないのである。ホモサピエンス・サピエンスが生まれてから、僕たちのDNAはほとんど変わってないのだ。それはどういうことか。何を持って進歩、前に進んでいると言えばいいのだろうか。歴史なんて人間の発明したものだと考えれば、進歩なんてこともまた人間の幻想だったのではなかろうか。

すべてが無意味なのか。そもそも人生の意味なんてものはあるのだろうか。でも、あろうがなかろうが僕たちはこの層の上に生きていて、また、ダイブし続けるのである。そして、層は重なり続けていく。

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