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イタリア旅行記①:ルネサンス建築の本質

8月中旬からローマ、フィレンツェ、マントヴァ、ミラノを巡る約2週間のイタリア旅行に行ってきた。ヴェネチアには昔一度行ったことがあるが、これほど本格的にイタリアの各都市を巡る旅は初めてだ。

僕が通っていたイェール大学大学院のカリキュラムには、2年次の夏に1ヶ月間ローマに滞在する「ローマ研修」なるものがあるのだが、僕の代はコロナのためあいにく中止になってしまった。その苦い思い出を抱えたまま卒業して2年半、なぜか今年に入って古代ローマの浴場空間やルネサンス以降のドーム建築などを働いている事務所で参照する機会が増え、これはもう直接見に行くしかないと思い立ったわけである。

これに加えて、かれこれ3年近く更新が止まっている形態分析シリーズを再び何らかの形で継続する新しい視点と興奮が欲しかったというのも大きな理由の一つだ。嬉しいことに旅を終えてみると、これまでの継続ではなく、初めからシリーズを書き直したいと思うほどの興奮と新しい発見がいくつもあった。今回はそれらの発見を年代とテーマごとに幾つかの記事にまとめて、撮り溜めた写真を添えながら、自分にとってのメモのつもりで書いてみたい。


0.ルネサンスの本質: ブルネレスキ、アルベルティ、ブラマンテを訪ねて

振り返ってみると、今回の旅では無意識にも「ルネサンス」が一つ大きなテーマとしてあったように感じる。これまでブルネレスキ、アルベルティ、ブラマンテと、ルネサンスを代表する建築家について書いてきたこともあり、彼らが手がけた建築群やそれに関わる芸術作品は当然旅程の中心を占めていた。そしてこれらの作品を実際にこの目で見ていく中で、建築にとってのルネサンスとは何だったのか?その本質は何だったのか?という大きな問いが自分の中でクリアになっていくような感覚を覚えた。

先に答えを言うと、それはルネサンスの特徴としてよく形容される、調和の取れたプロポーションやパースペクティブへの意識といった合理的なデザインではなく、むしろそれらの発明が現実世界に建築として落とし込まれる際に生じる様々な齟齬、その齟齬にこそルネサンス建築のエッセンスが詰まっているように強く感じた。定義上はその合理性が強調されるルネサンスだが、実際の建築は齟齬だらけなのだ。

ここでこのような「齟齬」を”建築”に(今のところは)限っていることにも注目していただきたい。それは、建築が絵画や彫刻に比べて、敷地や地形といった周辺環境だけでなく、プログラムや使いやすさといった前提条件に大きく依存し、またその制約を強く受けやすい芸術分野だと思うからだ(当時は古代から残された既存の構造体の上に建てたり、周辺の建材を使い回すことも多かったため、よりその影響を受けやすい)。すなわち、一枚のキャンバスや一つの大理石といった仮想領域の中では成立するような合理性を、現実の3次元空間において人が使う建築として齟齬なく成立させるのは至難の業なのだ。

キリストの哀悼、ペルジーノ(1495)、ウフィツィ美術館。キリストを中心にパースペクティブを用いながら登場人物にヒエラルキーをつける極めて合理的な絵画構成(筆者撮影)
マルテルリの告知、フィリッポ・リッピ(1440)、サン・ロレンツォ教会。建築を模したフレームの中でほぼ対称で色彩の異なる建築空間が絵画の向こうに続いていく(筆者撮影)

そして、この建築にとっては宿命的な齟齬こそが、ルネサンス期の建築家が独創性を持って解決しなければならなかったデザイン上の課題であり、例えばブルネレスキ、アルベルティ、ブラマンテのような建築家を個性的かつ偉大な存在にした理由の一つではないかと考えるようになった。合理性が理想としてあるからこそ、現実世界との齟齬が生まれ、その齟齬があるからこそ理想とされる合理性が知覚可能な現象として現実世界に表面化する。このような理想と齟齬の間の「鶏が先か、卵が先か」のような関係性が、ルネサンス建築の本質ではないかと思うようになったのである。

では、この「齟齬」を媒介とした合理性は現実の建築の中でどのように表面化しているのだろうか?まずはルネサンスの語源でもある”文芸復興”というこの時代の潮流と、合理性の土台となる芸術的ルールの確立を、アルベルティの取り組みと建築に着目しながら見ていきたい。観念としての合理的なルールが、必ずしも現実世界で合理的な解決とはなっていないことが見えてくるはずだ。

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