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【大人のいない国】成熟した大人とは、を真剣に考えるべきだ

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆

〜内田樹さん、という人〜

国語の教師だった母は、小学生から中学生にかけて、いろんな作家を僕に教えてくれた。

そのうちの一人がこの著者のひとりである内田樹さんだ。
厳密にいうと、内田樹さんは作家ではなく大学教授で、専攻はフランス思想、映画論、武道論である。
まだ未熟だった僕にとって、内田樹さんの文章は、普段のモヤモヤを言語化してくれたものだった(使われる言葉はかなり難しい言葉だが…)。文章から、この内田樹さんという人は頭がいいけど頑固な人、という印象を受け、今読めば「正直、同僚にいたら嫌だなぁ」という感じの人なのだが(笑)、一方で、未熟だった時からこの人の文章に触れてきた僕は、思考回路はかなり影響を受けている。

内田樹さんの言葉にはいつも納得させられる場面が多く、読んでいて心地いい作家さんの一人である。今回読んだこの本も、感覚的・抽象的に感じていたモヤモヤを具体的な言葉で表現してくれた。


〜成熟した社会で生きる未熟な人々〜

さて、タイトルにもなっている「大人のいない国」とはどういったものなのか。

教育、福祉、介護、清掃など様々なサービスが公共的に(時には民間から)提供される現代。人間は社会的生物であり、相互的に助け合いながら生きていかなければならないが、「子を育てる」「高齢者を助ける」などの近隣の人々と協力していかなければならない事を全て社会のシステムに委託する形となっている。
人々は、生活における様々な部分を社会のシステムに委託し、自分の時間を確保して、自分の人生を豊かにすることが出来る。

これは社会として素晴らしく成熟した形である。しかし、その一方で、その社会を構成する人々は成熟しない。

疑惑を指摘された企業や政党の責任ある地位のひとたちが、子供騙しのような発言と行動を繰り返す。そして、テレビの前で呆れ、怒った人たちも、ことの重大さをさらに問うこともなく、やがて事件そのものを忘れる。

マスメディアやクレーマーは「一体誰が悪いのか」という語法で論じ、自分はシステムの外側にいて不都合については、システムを構成する要素の何かが悪いと考え、自分がシステムの一部である事を認めようとしない。

そんな幼稚な人々が特に成熟せずに何かを身につけることもなく、なんとなく生きていられる、皮肉にもそんな社会は成熟してると言えるだろう。それが本書のいう「大人のいない国」の姿だ。しかし、そんな成熟した社会が崩れたとき、子どもばかりのこの国で誰が社会を修繕するのか、それを大きな問題・課題として捉えるべきだと本書は述べている。


〜「妥協」と「和解」〜

さて、本書では成熟した大人が消えつつある日本を多層的に2人の学者が分析しているのだが、とりわけ僕の中で印象に残ったトピックを2つご紹介したい。

まず1つが「妥協」と「和解」についてである。

本書に書かれている内田樹さんの経験談が以下の通りである。

このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけど、意味がわからないらしい。(中略)「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割ぐらいは実現するよ」と説明してみるんですけど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂するほうが良いと思っている。(中略)和解することと屈服することは違うのに。

これは非常に印象的なエピソードであった。
このエピソードの"若い人"というのが、いくつぐらいの人かは定かではないが、僕より年長の人でもこういう人はいる。
仕事の上で意見が分かれ対立する場面になった時、僕個人としては中間点を探りたいのに相手は頑として自身の意見を譲らない。結果、その仕事が進まない、という場面。過去に何度も経験してる。
あらゆる事をいわゆる"勝ち負け"で評価したがる人によく見られる傾向だったが、言い換えれば物事を0か1かの対でしか見られない人々だ。そういう人たちを"単純"と言ってもいいかもしれない。時によってはそれを0.4や0.6で見なければ、成熟した大人とは言えないのだと思った。


〜便利な言葉「言論の自由」〜

もう一つが「言論の自由」に関する記述だ。これについても僕は普段から疑問を持っていた。SNSが生活の中に入り込んできてからというもの、「言論の自由」という言葉を盾に「誰が何を言っても自由だろう」という論調で、それを目にする人々などお構いなしに好き勝手に発言する風潮に、僕は常々疑問を持っていた。

内田樹さんは、この点についても一つの答えを提言してくれた。
以下は本書の引用である。

発語は本質的には懇請(熱心におりいって頼み込むこと)である。聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。(中略)言論の自由が問題になるときには、まずその発信者が受信者の知性や論理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意が無ければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発信者本人ではなく「自由な言論の行き交う場」そのものであるという、場の威信に対する信用供与のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される。そのような「場が存在する」ということへの信認抜きに「言論の自由」はありえない。「聴き手が同意しようとしまいと、私は言いたいことを言う」という態度に、場の威信と場の判定力に対する信認を認めることはむずかしい。

基本的に発言は誰かに聞いてもらうために発する事が前提となっている。そもそも、「聴き手が同意しようとしまいと、私は言いたいことを言う」と本気で言う人が、「言論の自由」を盾にする事があるだろうか?おそらくないだろう。
何かを発言するという行為は、誰かに聞いてもらいその正否を判定してもらうことを期待しているのである。「言論の自由」とは、いわば「自分の発言について他者に評価してもらう自由」と言い換える事が出来るだろう。そして、その自由を行使するにあたり、その言葉を受け取る相手側に対しての敬意がなければならないのだ。

しかしながら、世の中では「言論の自由」を「何を言っても許される自由」と解釈している人が多いように思う。
この解釈が広がる事で、発言の受信者に対し敬意を欠いていた自分の発言が基になり、誰かが傷ついたり自殺をしたり、どこかの企業が大きな損失を被ったりなど、何か社会的な問題が起きた際、発言者は「言論の自由があるんだから、自分の発言には問題はない」という卑怯な論調で逃げてしまうという事態が度々起こっているのだ。

「言論の自由」という言葉を自分の都合に合わせて解釈して、思慮を欠いた発言をしても自分の身を守る事にだけ利用する行為は、幼稚と言わざるを得ないだろう。
他者に対する敬意を持ち「言論の自由」を掲げる人こそ、成熟した大人と言えるのだと思う。



と、様々な視点から「成熟した大人とは」という問いに答えを出す本書。
かつて僕らが思い描いていた大人を目指し、そして、次世代の人たちに憧れられる大人になるために、この本を手に取って"大人"について考えてみるのもいいかもしれない。

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