【人間・この劇的なるもの】美しく力強い人間論
オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆
はじめに。
本書は間違いなく素晴らしい一冊である。
しかしながら、以下に書く僕の拙文により著者がただのニヒリストや個性否定論者のように思われてしまうのは不本意である。
この記事を読んでそういう風に感じてしまうのであれば、それは間違いなく僕の文章力に原因があり、本書は決してそういう安易な内容の本ではない、という事はまずお伝えしておきたい。
〜本質を捉えた言葉たち〜
何のきっかけでこの本を選んで読んだのかは忘れてしまったが、最初の数ページを読んだ時にこんなフレーズをみつけたことで、「この本、すごい本かもしれない」と感じた。
この一節はあくまで本書の主題の冒頭の冒頭に過ぎないのだが、なんとも表現し難い美しさと力強さを感じた。
この一節を読んでから僕は、まるで学生のようにこの本を貪った。
本書を一言で表すと「劇的な人間存在」というキーワードで解き明かす人間論である。
先に書いた一節もしかり、美しくて力強い言葉が次々と胸に刺さる。たった一回しか読んでいないのに、本は折り目だらけである。
自由、個性、幸福、あらゆる複雑な感情の本質を捉え書き切った本書は、多くの人の胸に響くだろう。
〜「個性」とは?「自由」とは?〜
本書は初版が昭和38年であり、当時の人々の空気感や考え方はわからないが、著者の「個性」と「自由」に対する考え方は現代でも十分通用する。
今でもこの「個性」と「自由」という言葉は、あらゆる場面で使われているが、この言葉を使う人に何か違和感を覚える、という人もいるはずだ。僕はそうである。
そんな「個性」と「自由」の危うさと脆さを著者は次のように述べる。
僕たちは「個人」に対する「全体」を見通せるようになってしまった。厳密に言うと、「全体」を見通せるという錯覚に陥っている。
そして、「全体」という自己の外部の現実と自己の間に違和を見出すようになった。自分を遮る他人を見るようになった。結果として僕らは自己表現や自己主張に追い込まれることになったのである。自己と他人の間にあった幕が取り払われて自己が露出してしまっただけなのである。
「個性」を求めすぎると、それは今自分のいる「全体」をも否定することになり、その行き着く先は「孤独」なのである。
今日における自由とはいわば諸々の「いやなこと」からの逃避を意味する。労働、奉仕、義務、約束、秩序、規則、伝統、過去、家族、他人、などなどからの逃避だ。
つまりは「全体」から外へ向かうためのものなのだが、それは「全体」の存在を前提としている事に矛盾が生じる。矛盾した「自由」を求める限り、その達成はあり得ないのだが、心が求めてしまうと際限はない。
また、「自由」とは対物質の問題でもある。好きなものを好きなだけ手に入れて、好きなことをして好きな人と過ごす。しかし、その意味での真の自由とは、他人を含めたすべてのものが自分の欲求を邪魔をしない、という破綻した話にもなる。
安易な「自由」は逃避や身勝手でしかなくなる危険を孕んでいる。
「個性」や「自由」は多くの現代人の偶像ではあるが、それがどれほどの理想であるのかは怪しくなってくる。
〜人間の「生きがい」とは?〜
では、「個性」や「自由」が疑わしい世界で僕らはどう生きれば「幸福」なのか?「生きがい」とはどこにあるのか?
著者はこう述べる。
必然性というのは「事が起こるべくして起こっている」ということである。つまりは、「個性」という言葉に振り回されるのではなく、自分の役割をはっきりと選びとり演じ切ることだ。いかにも受身的な言葉にも感じるが、著者によると、役割を選びとり、"劇的に"演じきるのは「ひとつの必然を生きようとする激しい意思」なのだ。
度々引用される「ハムレット」の主人公のように、自分の役割を死も含めて演じきる。
自分のいる環境を受け入れて、その中で演じきる事は何よりも「"生"を謳歌している」と言えるのではないだろうか。
人間とは。人生とは。
複雑で大きすぎる問題を考えるヒントがこの本には散りばめられている。
間違いなく僕のオールタイムベストに入る一冊だ。