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【書評】ロシア文学の怪物たち

 昨日購入し、早速読み始めた本書の冒頭。著者の松下隆志さんが、小学校時代を経て学生生活に至る過程でいかにロシア文学に出会ったかを綴る、私小説のような展開のプロローグ。外出先で読んでいた私は、こみ上げる涙を堪えていたのだった

子ども時代の記憶

 私の子ども時代も、著者の松下さんのそれと同様、小学校そばの公園はホームレスたちに占拠されており、そこにある遊具は段ボールハウスに改造されていた。そのホームレス達の中に、私たち子どもにちょっかいをかけてくる(小学生に不意に近づいては、なぜかデコピンをしてくる。結構痛い。)、私たちの間で有名なホームレス(彼はドヤに寝泊まりする日雇い労働者だったかもしれないが)が1人いた。
 小学校3年生か4年生の頃、昼食後の清掃の時間だったと思うが、小学校と公園の間の校門の所で、そのデコピンをしてくるホームレスが、ニヤニヤしながらナイフを出して立っていたことがあった。一応、鉄製の柵の門で隔たっていたこともあり、私たち児童は、「帰れー!」とか何とか言いながら、子ども特有の怖いもの知らずの連帯感で、彼と言葉の応酬をしていた。彼が本気で児童に危害を加えることを考えていたかどうかは不明だが、ただ、普段児童にデコピンをしてくる(今考えると暴行罪に当たるのではないか)という行動原理の持ち主であったため、それなりに警戒すべき状況ではあっただろう。その後、教諭が見に来たということは覚えているが、特に警察が来た覚えもないため、多分、教諭が来たことで彼もナイフを収め、立ち去っていったのだと思う。
 あとは、小学校4年生の頃。何の授業だったか覚えていないが、授業中にやはりホームレスだか日雇い労働者だかが、酔っぱらっているのか調子良い感じでいきなり教室に乱入してきて、前の黒板にチョークでデカデカと「昭和〇〇年 △△小学校卒業 どあほう」と書いた(昭和何年と書いたのかは覚えていない。△△小学校は、私の母校名。)。教室中が呆気にとられる中、直後に教室に駆け付けてきた男性教諭2人がかりで、彼は教室からつまみ出された。
 特に印象に残っているのは以上の2つの事件であったが、ちょっとしたことであれば日々何かしらあったと思う(私も件のデコピンは何度か喰らった。)。
 治安のあまりよろしくない場所で過ごした子ども時代ではあったが、私の小学校と中学校は、児童数ないし生徒数が比較的少なかったためか、いわゆるヤンキーカルチャーの度合いはかなり低かった(ここは松下さんの過ごされた中学校と決定的に異なる点ではあると思う。)。先に記したとおり、不審者は私たちの日常の生活圏に溶け込んでいたが、もう「そういうもんだ」と大人も子どもも思っていたので、さして不満も感じていなかったように思う。
 私と松下さんとは、同年齢ではないが、世代としては近いこともあり、世紀末のスクールライフの記憶が、本書の冒頭を中心に語られる私小説風の独白録を読むことで私の深層の意識の中で活発化し、私の中で不思議とこみ上げてくるものがあったのだ。それは、今はもう戻れないあの子ども時代に対する、追憶の念であったというのが近いと思う。もっと言えば、普段は抑圧されている「子ども時代に戻りたい」という無理筋な衝動が、解き放たれたような感じだった

深層の意識から

 ソヴィエト時代の映画の巨匠であるアンドレイ・タルコフスキーに、有名な『惑星ソラリス』(Солярис)というSF作品がある。難解な作品であるとされ、その解釈は容易ではないのだが、私としては、全体としてこの作品は、主人公であるクリスの深層の意識(無意識と言っていいのかもしれない。)から、抑圧された表象を抉り出し、白日の下に容赦なく晒す(あるいは対峙させる)過程を描くことで、近代的理性の再検討を私たちに促すものであると感じられた。得体の知れない知性を持った惑星ソラリスの海は、人間の記憶の奥底から禁断の記憶を抽出し、かつ、それを物質化してしまう。クリスにとってのそれは、かつて自らが原因となり自殺してしまった妻のハリーであった。これにより、クリスは抑圧していた現実と向き合うこととなったが、科学的な理性を代表する立場であったはずの彼が、次第にハリー(の生き写し)に耽溺するようになる(すなわち、非合理的なソラリスの力に屈するようになる。)。最後にはクリスは、ソラリスの海に浮かぶ島にある、子ども時代の家を正確に再現した(ソラリスにより物質化された)家の中で、彼の亡父(の生き写し)とともに、科学的理性に背を向けて安閑とした時間をただただ過ごしているのであった……。
 私たちは、普段夢を見る。私は、比較的夢の内容を覚えているほうかもしれない。夢の中での、行きつけの美容室や病院がある(勿論、それらは現実世界には存在しない。)。それらの夢の表象から私が感じるのは、何か、普段決定的に抑圧された記憶や衝動ないし感覚であり、かつ、後期のジャック・ラカンいうところの「現実的」な何かである。そして、その夢の題材として私の夢によく出てくるのが、子ども時代なのである(ほかの人もわりと同様であると思うのだけれども。)。子ども時代そのものが決して禁断の記憶というわけではないのだが、普段、合理的な理性に基づき、成人に求められる社会性を備えながら日々仕事をこなし、その場に応じた様々な役割をプレイする私たちにとって、ブランコを漕ぎながら靴を遠くまで飛ばしたり、近くの木に登ったり、地面のタイルの色が違う所だけ歩いたり、夕方暗くなるまで夢中で外で遊んだりすることは、世間としては認められないことではあるだろう。私は時々、夢から醒めた時に、直前に見ていた夢で表象されるものたちが何か決定的に私の存在にとって根源的なものであるような感情を抱いて、涙を流していることがある。これは、先に触れたように、後期ラカンの「現実的」なものと関係があると思うのだが、容易に言語化することができず、表現に窮する。ジークムント・フロイトが説いた「夢」の重要性は、勿論、夢占いのようなものとは全く異なるのだが、しかし彼は結局科学的には精神分析学を整然と理論づけするまでは至らず、現在でも私たちにとって「夢」は、人文科学の根本に関わるかもしれない謎であり続けている。
 ちなみに、楳図かずおが『わたしは真悟』で表現したかったことの1つは、この「子ども時代」との向き合い方だったと私は考えているのだが、自信はない。また、先述の『惑星ソラリス』に関して、元ネタとなった小説『ソラリス』(Solaris)の著者であるスタニスワフ・レムが、原作で中心的な問題となっていた「人間とソラリスとの意思疎通不可能性」が映画ではやや後退し、クリスとハリーの関係ばかりにフォーカスされたことについて、監督のタルコフスキーと大喧嘩をしたことは有名であるが、私としては、奥底に眠る禁断の記憶を前にした人間の脆弱性を見つめたタルコフスキーの心情や問題意識が分かるような気がする。

予想外の一冊

 おお! 気づいたら本書の内容からだいぶオーヴァーランしてしまった。
 さて、本書は、著者の「ロシア文学の研究及び翻訳」の歩みと伴走しながら、著者が愛読し、あるいは影響を受けた作品たちについての著者の個人的な思いを、そっと(しかし相当の熱量を持って)私たちに開襟してくれる文学作品である(これは、ロシア文学のガイドブックというより、1つの文学作品であると私は思う。文学についての文学なので、メタ文学?)。2022年2月24日のプーチンによるウクライナ侵攻開始直後、ロシアの文学やカルチャーは、無慈悲にも、言うなれば焚書の憂き目に遭うような扱いを受けることが何かと多かった。私も、末端の一ロシア語学習者として、何だか肩身の狭い思いをした。今ではだいぶ状況は改善したと思うが、それでも、ゴーシャ・ラブチンスキー(ГОША РУБЧИНСКИЙ)のTシャツを街で着るには人目が気になる程度ではある。ソ連崩壊による冷戦構造の終焉(人口に膾炙した「世界史の終わり」)から9.11を経てウクライナ危機に至るまで、著者のソ連~ロシアに寄せる心情の移ろいは、本書で手ごたえのある筆致によって描写されているので一読されたし。
 私は、本書に収められた作品の中では『イワン・イリイチの死』と『穴持たずども』しか読んだことがなく、ロシア文学というこの一広大分野においては、初心者マークのヒヨコの段階にあると言って間違いない。ボードリヤールから埴谷雄高まで縦横無尽に参照しながら本書において論じられる、ロシア文学の様々な怪物たち───ロシア文学という広大で暗鬱な森の中へは、自らの存在を賭金として差し出してそれと格闘してきた松下さんのような人の灯火を頼りに踏み入ってみたいと思う。なお、オクシモロン(ロシア出身のラッパー)、ゴーシャ・ラブチンスキー、ブッテクノ(ウクライナ出身のテクノミュージシャン)等のユースカルチャーに幾分造詣が深いことも、私は松下さんの武器であると考えており、本書においてもその片鱗が所々でちらついているのでニヤリとしてしまった。
 今年は、奈倉有里さんが『文學界』で連載されていたものが1冊に纏められた『ロシア文学の教室』が刊行されたり、ボリス・グロイスによるロシア宇宙主義のアンソロジー≪Русский космизм≫が突如として翻訳・出版されたり(『ロシア宇宙主義』)、それと全く同時に(!)別の出版社から『ロシア宇宙芸術』なる書が刊行されたりと、一介のロシア文化/思想ファンとしては嬉しい限りの出版が続いている。そのような中、本書が満を持して(?)世に出されたことは真に喜ばしい(そういえば、一部のカルト文学ファンの話題を呼んだ『穴持たずども』(松下さん訳)が出版されたのも今年の初めでしたね。)。本書に収められた論考と、最近私がある種の当事者意識を持っていくつか本を当たっている関心領域とがリンクする場面もあったので、そのことについても触れたいが、それはまた次の機会とさせていただきたい。
 小括として、本書は私たちロシア文化/思想ファンにとって待望の一冊であったとともに、思わぬ所で、私という実存のコアの部分に不思議な感応を生じさせる、ある意味でちょっと予想外の一冊であった。そのちょっと予想外であったことの根底には、本書において松下さんという一文学者が挑んだ、ロシア文学の怪物たちと対峙すると同時に自らの半生を外連味なく告白するという正真正銘の文学的な営みが横たわっているのだと、私は思う。

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