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【映画コラム/考察】黒沢清監督『スパイの妻』「パラノイア的な正義とスキゾイドによる孤独」(『善き人のためのソナタ』)

『スパイの妻』(2020)
※現在、Netflixで視聴できます。
『善き人のためのソナタ』(2006)
『ボラード病』(2014)

黒沢清・濱口竜介・野原位による脚本

『スパイの妻』は、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞した、黒沢清監督の歴史の闇を題材としたミステリードラマです。

 一見、時代に翻弄された女性の悲劇を主題としたドラマのように見えますが、蒼井優が見せる演技は、悲劇のヒロインとして同情を集めるには、ほど遠く、むしろ、高橋一生演じる夫の優作と共に、滑稽さを強調するかのような演出になっています。

黒沢清監督と言えば、普段私たちが、意識していない存在を、見事に、顕在化させる精緻な脚本が特徴的です。

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さらに、今回、共同で脚本を担当しているのが、黒沢清監督の教え子でもある『寝ても覚めても』『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督です。

濱口竜介監督も、精緻な脚本が特徴的ですが、不条理な世界を多くの言葉によって顕在化する作風が特徴的です。

狂っているのは、私ではなく社会

この作品の主題を読み取るうえで、それを、最も端的に言い表している発言があります。それは、聡子がいる隔離施設に野崎医師が訪ねて来て、身元引受を申し出た際に、聡子が答えた発言です。

いいんです。ひどく納得しているのです。
先生だから、申し上げますが、私は、一切狂ってはおりません。
ただ、それが、つまり、私が狂っているということなのです。
きっと、この国では。

これは、同調圧力を題材にした寓話的なストーリーが展開される吉村萬壱の小説『ボラード病』(2014)を連想させるもので、本当は、個を持つ私ではなく、個を失った社会の人々が狂っていることを明らかにするストーリーであることが分かります。


正義(コスモポリタン)と幸福(個人)の対立

『スパイの妻』では、正義(コスモポリタン)と幸福(個人)の対立項が持ち込まれています。一見、憲兵を中心とした国による監視社会の闇を明らかにしていることがこの物語の主題のように感じられますが、実はこの話では、最も恐ろしいものとして描かれているのは、夫の優作の行動です。

この物語においては、二つの正義が聡子を翻弄します。一つが、憲兵隊の隊長である泰治が大望する国家のための正義で、もう一つが優作の言う万国共通の正義です。どちらが正しいというのは別として、どちらとも多くの個人の犠牲の上に成り立つ存在です。泰治の方は、最後まで自分の正義の完遂に迷いがあります。それは、聡子への思い(個)があるからです。

パラノイア的な優作(夫)とスキゾイド的な聡子(妻)

それに対して、優作にはほぼ全くと言っていいほど、迷いがありません。それは、コスモポリタンという正義にパラノイア的にとりつかれてしまっているからです。だから、最終的には、文雄と同様に最も大事な存在である聡子を裏切り犠牲にしてまでも、その正義を完遂しようとします。

一方、聡子は、個の幸福のために、画策し行動します。一見、身勝手な行動のように見えますが、優作の行動と比較すると、身近な者との幸福を一番に考えた正常な行動と言えます。つまり、パラノイア的に正義に取りつかれないように、スキゾイド行動し、最終的に、前述のとおり、隔離施設の中で過ごすこと納得して選択します。

スキゾイド的な幸福の追求が孤独をもたらす不条理

しかし、聡子の選択が決して幸福をもたらしたわけではないことが、聡子が海岸で一人泣け叫ぶ場面からも明らかです。これは、スキゾイド的な幸福の追求が、孤独をもたらす結果になっていることを物語っています。


『善き人のためのソナタ』

この話と構図がよく似ているのが、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督のドイツ映画『善き人のためのソナタ』です。両作品とも、特定の人物の実話ではないことも類似しています。ストーリーは、東ベルリンの冷徹な国家保安局員であるヴィースラー大尉が、国家反逆罪の疑いのある劇作家ドライマンの監視を命じられるが、恋人で女優のクリスタらの会話を盗聴するうちに、次第に心の変化が生じ始めるというものです。

この話では、泰治がヴィースラー大尉、ドライマンが優作、そしてクリスタが聡子に置き換えることができます。しかし、『スパイの妻』とは少し結末が異なります。ドライマンは、正義に取りつかれて東ドイツ政府の不正義を告発しようとしますが、恋人のクリスタは、ヴィースラー大尉の誘導もあって女優を続けるためにドライマンを一時的に裏切ります。これは、泰治同様に、ヴィスラーー大尉のクリスタに対する個人的な思いがもたらした行為でしたが、結果的に、クリスタが罪悪感に耐えられなくなり、車の前に飛び出すという悲劇的な結果をもたらします。

そしてパラノイア的にとりつかれていた正義から二人の男は完全に目が覚めることになります。その結果が二人にもたらしたのは、やはり孤独でしたが、ドライマンが書いた本によって、二人の思いを密かに共有したところで、映画が完結しています。




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