★我楽多だらけの製哲書(40)★~サンマルク公会議とコヴィー~
「ああ、チョコクロがない」
私が好んで利用しているサンマルクカフェであるが、いつものようにチョコクロとアイスコーヒー(M)を注文しようと思っていたところ、この日は店頭にチョコクロがなかった。
では他の商品を頼もうかということで、バターデニッシュに代わりを務めてもらうことにした。しかし、バターデニッシュには失礼なのだが、今日はチョコクロの気分だったので、甘いはずのバターデニッシュが何だかほろ苦く感じられた。
そのせいなのか、授業の予習などの活動でもなかなか士気が上がらず、いつもより早めに切り上げて店を出ることに決めた。去り際、店頭に並んでいる商品を眺めたが、やはり「オレンジの素敵な存在」はなく、今日は運の悪い日だと思いながら店を出た。
別の日になって、やはりいつものようにサンマルクを訪れたが、何と今日もあの「オレンジの素敵な存在」を確認することができなかった。他の商品は十分に用意されて並べられているのになぜという、打ちひしがれた気持ちになってしまった。
そこでこの日も申し訳ないが、バターデニッシュに代役をお願いすることにした。それにしても、このように「オレンジの素敵な存在」に出会えない日が連続することは、記憶を遡ってみてもほぼなかったはずである。本当にバターデニッシュには申し訳ないのだが、やはりこの日も作業効率は上がらず、早めに店を出ることにした。そして去り際、店頭の商品を眺めながら外に出ようとしていると、私はある事実を見落としていたことに気づいたのである。
店頭にはしっかりと「チョコクロ」の商品表示があるではないか。ただ、その商品表示のスペースに居座っているのは「ホワイトな敵対する存在」であった。敵対というのはちょっと過激すぎる表現ではあるが、これまで「ホワイト」といえば「塩はちみつチョコクロ」や「ホワイトチョコクロ」といった、正統なる「オレンジ」と相容れない「異端者」の象徴色だったから、そのニュアンスを含めて表現したまでである。もちろん断っておくが、「塩はちみつチョコクロ」も「ホワイトチョコクロ」も食べてみるととてもおいしいので、何か恨みがあるわけではないが、とにかく王道ではないということである。
私は「商品表示と商品の色との不一致」に違和感をおぼえつつ、この「ホワイトな存在」を購入してみることにした。本体を包む衣装こそホワイトだが、本体そのものは正統チョコクロのように見える。ここからホワイトチョコレートを用いた「ホワイトチョコクロ」ではないことは分かった。しかし油断はできない、「塩はちみつチョコクロ」は本体だけでは「正統チョコクロ」との判別が非常に難しいのである。
キリスト教では325年の「ニカイア公会議」を始めとして、正統教義と異端との判別などが話し合われる公会議というものが歴史上何度も開催されている。
そして、2021年1月某日、正統と異端の判別のため「サンマルク公会議」が開催された。
土井たか子風に言えば「やるっきゃない」
カエサル風に言えば「賽は投げられた」
『風の谷のナウシカ』のクシャナ風に言えば「しょせん血塗られた道だ。」
とにかく私はその白き悪魔と手合わせをしてみた。
しかし、それは悪魔ではなかった。
私の口の中には、あの懐かしきふるさとが広がった。
「私たちは単純に、物事は『こうだ』、あるいは『こうあるべきだ』と思い込んでいるだけである。そして、私たちの行動や態度、考え方そのものも、こうした思い込み=パラダイム(考え方、見方)から生じている。」
(以下、考察は続く)
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?