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第8話 争いが終わる条件

■はじめに


はじめまして、こんにちは。
突然ですが、皆さんは世界平和という可能性を信じているだろうか。戦争や飢餓、貧困等これらすべての問題が解決し、誰しもが自分の理想のために生きる、そんな理想郷。ビバ多様性でハッピーな社会。僕自身も道徳の時間で地球温暖化やらエコやら、地球上のどこかで2分に一回地雷を踏んでいる誰かの話を聞かされたゼット世代としては、世界が平和じゃないのはおかしいとそれこそ誰よりも心の底から思っていたのだけれど、そんなものは頭の悪いお花畑であって、実際問題それがあり得るかというと、万に一つもあり得ないだろうという結論に至ったのがここ数年の事。皆さんに宿るお花畑を除草剤で真っ黒にすべく、世界平和と争いについて考える。


■人類史は争いの歴史


歴史の好きな人ならだれしも了承していると思うが、人類の歴史は戦争の歴史である。我々日本人の祖先は西日本から北を目指していき、蝦夷を殲滅して、アイヌを殲滅して、そして琉球の人を弾圧してその勢力を拡大してきた。それは別に日本だけの話でなく世界中どこでもそうである。運よく東西に長いユーラシア大陸に生まれた民族がその地理的な条件から他の地域よりも早く技術を発展させて、人数と生産力と研ぎ澄まされた武器によって遅れた地域を占拠していく。そういう歴史である。第二次世界大戦を最後に戦争の時代は幕を閉じたように思えたが、それもまた夢物語だったことが判明したのが2022年ごろからの話である。というかウクライナに限らず紛争はどこかで必ず起こっていた。


■争いの終わる条件


さて、争いは終わるのだろうか。終わるのだとしたらどういう場合が考えられるか、筆者はかつてヤフー知恵袋哲学カテゴリの住民だったのだが、そこでこれまでみられた意見を大まかに分類してみた。各作品についてネタバレ注意なのでご了承願いたい。

・マトリックス的解決

一つ目が「マトリックス的解決」。個人をそれぞれに隔離して争いをし得ない仕組みで管理できたなら、争いは無くなる。映画マトリックスでは、現実だと思っていた仮想世界マトリックスの外に、人間を管理する現実世界がある。仮想世界の中の知り合いは、同じく現実世界で管理されているのが映画の中での設定である。ただ、もし仮に、人それぞれに別の仮想世界を与えれたなら(個体それぞれに独立した都合のいい夢を見せ続けたなら)、個体間の争いは発生しない。それを管理する超越的な何かがいることになるのでそういう意味では不具合によるシステムへの反逆のようなものはあり得るかもしれないが、それがなければ争いは無くなるだろう。そこまでして人間を繁殖させたり生かし続ける必要があるかは疑問だが。

・進撃の巨人的解決

二つ目が「進撃の巨人的解決」。人類が一人残らず消え去れば、争いは無くなる。作中で主人公エレン達の住むパラディ島の民は、争いを終わらせるべく、生殖機能をなくして緩やかに殲滅されるという安楽死計画を立案する。この計画はあくまで、罪を償う片方の勢力の全面降伏という形であるが、そもそもその勢力双方というか、人類そのものがいなくなれば争いは無くなるというのがこの方法である。僕としては、人類というか生き物が生き物としてある限りは人類が絶滅したとて、犬とか猿とかがまた進化して人間の代わりに人間の歴史をたどることになるだけだと思うので、この星から一つ残らず生物が消えた時、争いは止むことになると思っている。

・エヴァンゲリオン的解決

最後に「エヴァンゲリヲン的解決」。争う個体が一つになってしまえば、争いは無くなる。先ほど争う勢力がすべて殲滅されれば争いは起きないという方法を説明したが、厳密には一人以下、一個体以下であっても争う相手がいないために解決可能である。エヴァンゲリヲンでは人類補完計画を遂行するために秘密結社ゼーレという組織が存在しており、最終的にはそれを主人公や仲間たちが食い止める、というのが大雑把なあらすじである。ここで出てくる人類補完計画というのがまさにそれで、作中では一度、人類がLCLというオレンジ色のスープとしてどろどろに溶け合っており、自他を超越し、孤独と恐怖を乗り越えた完全な生命体へと向かったが、主人公シンジがそれを阻んだ。

AIやロボティクス、脳のアップロードなどの技術が、生き物としての人類の在り方を変えた時、自他の境界があいまいになってあるいは一つの意識になることもあるのではないだろうか。


■結論と問題提起


大まかに分けると以上のようになると思う。これ以外にあれば教えていただきたい。以上のどれかに当てはまるのではと思う。たとえば、本能を技術で書き換える人口本能とかは、マトリックス/エヴァンゲリヲン的解決だと思う。なんにせよ僕の思想としては、あくまで生き物とは増えることのみを目標とした機械であって、他人を憂う心が芽生えるのはそれが結果的に自分のためになるからだと信じている。世界平和を掲げて赤の他人を憂う心はあくまで建前であり、世界に流れる潮流の中での戦略である。仮に戦争、飢餓、貧困のすべてから解放された世界が実現したとて、自分から遠い遺伝子を淘汰して自分の遺伝子を残そうとする生き物の原理は揺るがない。分かりやすくあった争いが、形を変えていくだけである。

そして、争いがなくなる条件について考えた時、遺伝子と現代の価値観を前提とする僕の脳は、争いがない方が気味の悪い話であって、我々はどんな形であれ、争うのが自然な形であるっていう、なんだかアニミズムみたいな信仰にたどり着いた。疲れた思考回路だが、結局我々は大きな流れの中で一喜一憂するだけの世界の一つの要素に過ぎないのだから、争いという変化を抑えて澱ませる方がなんだか気持ち悪いという印象である。

であれば、各々の幸せを 仮に他人を踏みつぶすことになっても追及すればそれでいいのだが、さて幸せとは何だろう。

それについては、また次の機会に書こうと思う。



追伸

素人哲学みたいなものを書いてます。
竹野誠です。

今後も色々書いていくので、
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