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彼女と泡盛。インドの東にて。

天満の小さな通りにあるその店に、僕はじっとりとした夏の空気をかき分けるようにして向かっていた。遠くで蝉が鳴いている。大阪の夏は、まるでカレーのスパイスのようにじわじわと効いてくる。気温は35度を超えていたが、湿度のせいで体感はさらに高い。僕は額に滲んだ汗を袖で拭いながら、ふと足を止めた。

そこに彼女がいた。白いシャツに鮮やかなイエローのエプロンをつけて、店先で僕を待っていた。彼女は僕を見つけると、ほんの少しだけ口角を上げた。微笑みというほどでもないが、それでも僕の胸を軽く打った。

「来てくれてありがとう。」
彼女の声は、まるで冷たい風が通り抜けるように清々しかった。僕は頷いて、店の中へと足を踏み入れた。

店内は狭いが、その分温かみがある。壁に貼られたベンガルの風景写真が、ここが大阪であることを一瞬忘れさせてくれる。テーブルはたった四つしかなく、そのすべてが木製で素朴なつくりだ。カレーの香りが漂い、胃袋が刺激される。

彼女は僕をカウンター席に案内し、すぐにカレーを運んできた。金色のカレーの上には、赤いトマトと緑のコリアンダーが彩りを添えている。ベンガル地方のカレーは、他のインド料理とは異なる深い味わいがある。スパイスの奥に隠れた酸味と、じんわりと広がる甘さが、じっくりと煮込まれた食材から引き出されている。

「これ、泡盛もあるよ。ベンガルカレーにはこれが一番合うんだから。」
彼女が言って、透明なグラスに氷を入れた泡盛を注いでくれる。僕は少し驚いた。ベンガルカレーと泡盛なんて、考えたこともなかった。

「そんなに合うのか?」と僕は訊いた。

彼女は笑って、「飲んでみて。騙されたと思ってさ」と返す。彼女が笑うと、何か特別なものが空気に溶け込んでいくような気がした。」

僕はグラスを手に取り、一口飲んでみる。冷たい泡盛が喉を通ると、そのあとにカレーのスパイスがさらに深く響いてくる。彼女の言うとおりだ。驚くほど、相性が良い。

「どう?」と彼女が尋ねた。

「うん、確かに合うね。今度からカレーには泡盛だな。」僕はグラスを軽く揺らしながら、彼女に笑いかけた。

「でしょ?」彼女もグラスを手に取り、僕と同じように一口飲んだ。

この店は彼女の間借りで、昼間だけ営業している。平日はOLをしている彼女にとって、この店はまるでカレーに対する情熱の一端を形にしたようなものだ。彼女のカレーへの情熱は、僕の中にいつの間にか染み込んでいた。

「週末だけの営業って、どう?」僕は少し気になって訊いた。

「思ったより楽しいよ。仕事とは全然違うけど、それがまたいいのかもね。自分の手で何かを作るって、やっぱり特別なことだと思う。」

彼女は少し遠くを見るような目をしていた。僕はそんな彼女を横目に見ながら、カレーをひとさじ口に運んだ。辛さがじわりと口の中に広がり、それと同時に彼女の言葉も胸の中に沁み渡る。

僕たちはお互いに、まだ言葉にできない何かを感じていた。でも、それでいいんだと僕は思った。この曖昧な関係が、夏の日差しのようにぼんやりとした形で存在していることに、どこか安心感を覚える。

彼女との会話は途切れることなく続き、僕は泡盛をもう一杯頼んだ。店の外では蝉が一層激しく鳴いている。夏はまだまだ終わりそうにない。

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