【孟子見参#004】再び恵王、教えを乞う(梁恵王編④)
現代語訳
恵王と孟子が話をしている。
「先生、何か教えてください」
すると孟子が王に尋ねる。
「人を殺すのに、棍棒を使うのと剣を使う。これは何か違いはあるでしょうか?」
王が答える。
「いや、人を殺すという点でどちらも違いはない」
続けて孟子が尋ねる。
「それでは人を剣で殺すのと、政治が悪くて人を死に至らしめること。両社に違いはあるでしょうか?」
王は答える。
「いや、それも人を殺すという点ではどちらも違いはない」
孟子は続けます。
「いま、王の食事には旨そうな贅沢な肉が出され、王の乗られる馬は十分な餌を与えられていて肥えています。一方で民は飢えて、なかには餓死するものもいる有様。これは獣をけしかけて人間を食わせているようなものです。獣同士の共食いでさえ醜いことなのに(獣に人間を食わせるなど持ってのほかでしょう)。民の父母たるべき王ともあろうものが、こんな獣を率いて人間を食わせているようでは、どうして民たちを慈しむ父母たる王となることができるでしょうか。
孔子は『俑(死者への供え物の人形)を作ったものの子孫は断絶するだろう』と言っています。余りにも精巧に人間に似せたものを死者と一緒に埋葬したことから、人々は死者のためにまるで生きた人間を一緒に葬ったようで、これを気持ち悪がって嫌悪したのです。
人形を埋葬するだけでも人々は嫌悪の気持ちを抱きます。ましてや生きた人間をむざむざ飢え死にさせてしまっているようないまの政治は言うまでもないでしょう」
解説・雑談
前回の後半部分を改めて強調したようなシーンです。孟子に教えを乞うてはダメだしばかりを食らう。それでも彼を遠ざけるわけでもなく、また教えを乞う。孟子に対する恵王の態度はなかなか真面目で誠実な君主のような印象を受けます。
実際のところ、当時の梁(魏)は強国ではあるものの、先だって我らが孟子に「戦争好き」と言われたように領土拡張を目指して先代から周辺諸国との軍事衝突が多く、民には戦費負担が重くのしかかり国力が疲弊していました。
ところで王という称号は本来であれば天子たる周王朝にしか許されていません。当時、王を名乗るということは天子になろう、周王朝に取って代わろうという野心を表明するに等しいことです。そんな恵王の野望を達成するための積極的な対外政策が領国の疲弊を招いている。根本的な原因である覇権的な政策を改めなければ小手先の「善政」を施そうとしても意味がない。
民の父母たる王を目指すこと。いまの恵王が歩んでいるのは力にものをいわせる覇道。それではいけない。王道を目指しなさい。何度も何度も教えを乞うてくる恵王を見限ることなく、我らが孟子は繰り返すのです。
さて、ここで出てくる俑(よう)とは人間をかたどった人形です。死者の世話をするために墓に副葬されるもの。有名な始皇帝陵から出土した兵馬俑もその名の通り俑の一種です。もともとは草で編んだ人形を死者とともに埋葬していたものに替わって、人間をかたどった焼き物や木の彫り物が作られるようになったのが俑です。兵馬俑を見るとわかるように、なかにはかなり精巧な俑も出てきます。
孔子や孟子が生きた春秋戦国時代は殉死の習慣は廃れていたといわれています。そのため、たとえ作り物とはいえ、人間と見間違うほどの人形を死者と一緒に墓に埋めるのは、殉死をイメージさせるもので気持ちがよいものではなかったでしょう。一説には、草木の人形で済んでいたものが俑に取って代わり、これがさらにエスカレートして殉葬という悪習につながっていったという説もあります。
白文
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