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【孟子見参#002】民とともに楽しむ(梁恵王篇②)


意訳

 梁の恵王が宮殿の庭の大きな池のそばで、庭に遊ぶ鳥や鹿を眺めながら
孟子に尋ねた。
「賢者もこのように動物たちが遊ぶ広大な庭を眺める贅沢を楽しむものだろうか」
 孟子は答える。
「むしろ賢者であるからこそ真に楽しむことができるのです。賢者でなければどんなに贅沢なものを揃えたところで楽しむことはできません。
 『詩経』にこんなことが書かれています。
 かつて周の文王(孔子が特に理想的な聖人君子として憧れた王)が、宮殿を作ろうとした。設計図を引いて準備をはじめると、文王のためにと大勢の民が先をあらそうように集まり、わずか数日で宮殿を完成させてしまった。
文王はこの宮殿の造営は急がなくともよいとしていたにも関わらず、文王を親のように慕う民たちが自発的に集まりあっという間に工事を終えてしまったといいます。
 宮殿ばかりではなく立派な庭付きで、文王が庭にお出ましになると鹿や鳥たちが安らかに過ごし、これまた立派な池には魚たちが躍るように活き活きと泳いでいる、という有様であったと謳われております。
 文王は民たちを動員して自らの宮殿や庭を作ったのですが、民たちはこうした贅沢を非難するどころか自らも喜び、却って親のように敬愛する文王の徳を讃えさえしたのです。文王のような古の賢者はこうした贅沢を自分ひとりのためではなく、民とともに楽しんだからこそ、真に楽しむことができたのです。
 一方、『書経』には、夏の桀王(暴君の代表格)を太陽になぞらえて民たちがこんな言葉が書かれています。『この太陽はいつになったら滅んでくれるのだろうか。人びとを苦しめるこの太陽が滅んでくれる時がくるのなら、自分も一緒に滅んでしまってもよい』と。このように滅んでしまってくれるなら自分の身も犠牲になっても構わないとまで恨まれてしまっては、どんなに立派な庭があって鳥獣がいたとしても、いつまでもひとり楽しむことなどできようはずがありません」

解説・雑談

 前回、初対面の梁の恵王に面と向かって「貴方の考えは間違っている!」と直言した我らが孟子。王は孟子を咎め立てして処罰したりすることなく、孟子もまた梁の国から出ていくことなく逗留することになったようです。以後、恵王が死ぬまで孟子は梁に留まり、その後もたびたび王の下問に答えることに。のちに触れることになると思いますが、孟子と恵王の間にはお互いに認め合うところがあったようにみえます。今回はそんなふたりの王庭での一幕です。
 いやしくも一国の王の庭です。古の酒池肉林とまではいかずとも普通の庭と比べれば豪奢でそれなりにお金が掛かっています。王のような身分であるからこそ成し得る贅沢ですね。ところで、古来より贅沢をせずに民とともに清貧な生活を営む君主こそが理想であり、それに倣うことを進言するお話はある種の定番といえるでしょう。恵王の質問もそんな清貧に理想化された君主像を意識したように「こんな贅沢は許されるのか」という後ろめたさのようなものを感じます。
 ところが孟子は条件付きではあるものの、君主の贅沢を是認します。他のお話で出てきますが、孟子自身は高級食材として有名な熊の手が大好きだと言っているように贅沢自体は否定していません。こういう俗っぽさが孟子の魅力でもあると思うのですがいかがでしょう?
 孟子は説きます。民とともに歩むことができる君主ならば、自然と贅沢を享受できるようになる。その例を孔子が編纂し、愛してやまなかった『詩経』のなかから、これまた孔子が敬愛する文王が宮殿を築いた時の例を挙げて王の質問に答えます。
 文王のように民と苦楽をともにするような君主となれば、自然と民の方から君主に恩沢を及ぼしてくれるというもの。恵王は賢者のことばかりを気にしていますが、大事なのは民とともに歩むということ。経済力や軍事力ではなく、仁義を浸透させて民心を掌握することで天下を目指す。孟子はいわゆる覇道ではなく王道を目指したのです。
 民主主義に慣れ親しんでいる現代の私たちにとっても、孟子の説く仁義や徳を政治の基礎とした王道は、軍事力や経済力を用いて行われる覇道よりも理想的で素晴らしい態度に感じられます。ところが彼らが生きた時代において、天子や為政者ではなくもっと民を重視せよという思想は当時としては相当ラディカルなものであったはずです。のちに戦国時代と呼称される当時は弱肉強食の時代まっただなかなのです。

「そんなこと言っても、敵国が大軍を率いて攻めてきたらどうするのだ」
「自分の国だけが仁義を奉っても、そうではない周りの国からみたら経済力も軍事力も小さな国はカモでしかない」

 孟子たちのような儒家の主張を採用するような余裕はないのが現実でした。隙を見せれば明日にも敵国が軍隊を繰り出して攻め込んでくるかもしれない。いくら王道を敷いても、攻めてくるやつは攻めてくる時代。攻め滅ぼされてしまったら意味がない。攻め込まれないような政治をすればいいなどといったところでそんなことができるのであればそもそも苦労はしません。大多数の中小諸国の王たちが置かれている状況はそんな悠長なことは言っていられないシビアなものです。素晴らしき王道も実際の政治レベルで採用するには時代が悪すぎたのでした。孔子にしても孟子にしても、この恵王との関係にもみえるとおりせいぜい顧問・相談役として迎えられることはありましたが、政治的権限を持つ要職を与えられることはありませんでした。
 のちに儒家の流れから大成された儒教は中国歴代王朝の正統性を担保する体制教学となるのは学校の教科書にもあるとおり。しかし、孔子や孟子が生きた時代は政治的にも、そしていずれ触れることになると思いますが思想的にも主流とは成り得ないでいました。それでも、我らが孟子は今日も雄弁に仁義と王道を叫び続けます。

白文

孟子見梁惠王,王立於沼上,顧鴻鴈麋鹿,曰:「賢者亦樂此乎?」
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孟子對曰:「賢者而後樂此,不賢者雖有此,不樂也。『詩』云:『經始靈臺,經之營之,庶民攻之,不日成之。經始勿亟,庶民子來。王在靈囿,麀鹿攸伏,麀鹿濯濯,白鳥鶴鶴。王在靈沼,於牣魚躍。』文王以民力為臺為沼。而民歡樂之,謂其臺曰靈臺,謂其沼曰靈沼,樂其有麋鹿魚鼈。古之人與民偕樂,故能樂也。『湯誓』曰:『時日害喪?予及女偕亡。』民欲與之偕亡,雖有臺池鳥獸,豈能獨樂哉?」

※白文は中国哲学書電子化計画より引用

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