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大鬱を記して私を救う

タイトルの通り今の大鬱を綴る。これは私が私自身を救済するための処置。
解毒の希望を込めた記し。治らない病気と生きるのはやっぱり辛いよね、という殴り書き。どうか私が救われますようにという祈りと共に。

以下、とても暗いです。



知らぬ間に季節が2つも過ぎていて、気がついたら肩に力を入れて歩かないといけない朝を毎日迎えないといけなくなった。

ずっと無意識のうちに生きていた気がする。
良い意味なのかそうでないのかは分からない。とにかく毎日が過ぎていってしまった、という感じ。
私が働けなくなった日から1年が過ぎて、私は今働いて、生きている。

ずっと無意識のまま生きていたら、ふとまた生きていられないかもしれないと、またあの感じが戻ってきた。

この季節が私をだめにしてしまうのか。大好きな冬が私の敵になってしまったようで悲しい。ぱりっと冷たい空気を吸って心が踊って生きた心地がしていたあの頃にはもう戻れないのかもしれない。


お陰様で、なのか、こういう風にしか生きられないからなのか、また私は一通り元気な人間として毎日働いている。幸せなことなのかもしれない。1年前の今日は泣きながらソファから動けなかったのだから。

今こうして毎日会社に行っている私が生きていることは、ものすごく幸せで尊いことなのかもしれないのに、毎日少しだけ消えてしまいたいと思いながら生きている。

涙がじんわり目の奥に溜まってしまって、表側まで出てこないようにぐっと力を入れて。じわ〜っと脳みその中に黒くてざらざらした雲みたいなのがかかっていく感覚。
暖色で柔らかいものを、頭と心の中に染み込ませられなくてどんどん冷たくなっていくようで、あぁ、どうしたらログアウトしてしまえるのだろうと、私の中の強制終了ボタンを探している。


希死念慮はないと思っていた。
死にたい、と考えたことがなかったから。
自分の体を傷つけたいとか、誰かの心に私の死という事実による悲しみの感情が生まれてしまうかもしれない世界には心の底から興味がなかったから。

死ではなく、私という存在が終了する方法はないのか、今ものすごく真剣に考えている。
これが、日本語で言うところの希死念慮なのだとしたらそうなのかもしれない。
病気って怖いなぁと少しだけ他人事のように思う。

生きると死ぬ以外に選択肢がないのって、なんだかとっても残酷だな。


仕事が繁忙期に入って、毎日忙しなく働いている。頭も体もきっと物凄く疲れていて、疲れているなとしっかり感じられている。これは私が病気を患って得た1番の能力、必殺疲労察知。
疲れている時は休まないといけないと訓練をした甲斐があり、ぐったり休んで何もしなくても強迫観念に押し潰されることはなくなった。
土日は休暇ではなく休養に充て、また月曜日から生きるための充電をする。

中止していた薬をひとつまた再開した。すごく悔しかったけど、薬を飲むことは元気になりたいからだ、と言い聞かせて。

大丈夫、これでもう失敗しない、上手く生きられている。そう思って過ごしていたのに、ふと私は物理の疲労で目減りした充電を元に戻しているだけのロボットになってしまったのかもしれないと思うようになった。

以前のような体力と気力を使う趣味や外出ができなくなり、人と会う機会もぐんと減ったせいで、マイナスをゼロに戻すことはできても、ゼロからプラスにしてあげられる生き方を失ってしまったのかもしれないと。


脳と体は常に波風を立たせないように生きて、それで精一杯生きている。なんとか毎日自分の足で歩いている。なのに、毎日とても寂しくて空っぽで、もう私の手元には何も残っていないのかもしれないと思ってどうしようもなく心が抉られていく。


言葉を私の中から外に出すことでなんとかこの毒々しい鬱の渦から抜け出したいと縋るように今私はここにいる。
どうか、この言葉ひとつが私の中から出ていくことで、明日は少しだけ泣かずに生きれたらいいのにと、誰に願えば、誰に祈れば、私はもっと明日を生きたいと思えるのだろう。


朝を迎えること、陽の光を浴びること、それを喜びだと感じられる明日であったらいいのに。

せめて私は、私だけは、私のことを大切にしてあげたいのに。
まだそれができない。
いつまで経ってもできなくて、また私が私自身に失望する。

どうしたって私は私を愛せないままなんだ。


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