パンが食べられないのなら、ドレスを作ればいいじゃない!
ドレスデザイナーになるにはどうしたらいいですか? どこで学べばいいのですか? そんな質問を最近受けるようになった。
だけどわたしはいわゆる「フツー」の道を歩んでここまできていない。それどころか、中学生のときの家庭科の成績もひどかった。ここだけの話なのだけど、10段階評価でなんと2だった。そんなわたしが、いったいどうしてウェディングドレスを作れるようになったのか。
そこには、娘の存在が大きく関わっている。今回はその話をしたいと思う。
ドレスを作る運命
「お母さんは、どうやっても、ドレスを作る運命になってたんだと思うよ」
もうすぐ18歳(成人!)になる娘に、わたしがウェディングドレスの仕事をするまでの経緯を話していたときに言われたことばだ。運命か、たしかにそうなのかもしれない。
でもね、とわたしは思う。あなたが生まれてこなければ、そして生後10ヶ月でアナフィラキシーショックを伴う重度の食物アレルギーと診断されなければ、今ごろわたしはウェディングドレスを作っていなかっただろうと。そして今となってはわたしのライフワークともいえる「お母さまのウェディングドレスのリメイク」にも、こんなふうに心を込めて向き合うことはなかったと思う。
娘はパンが食べられない
それは娘が生後10ヶ月を迎える頃だった。離乳食を食べさせてしばらくした直後、異変が起きた。やけにグズっているな、と思って見ると、娘の顔が真っ赤になって腫れ上がっていた。まぶたはパンパンに腫れ、息も苦しそうにしている。これはまずい。あわてて病院にかけつけると、「食物アレルギーの可能性が高い」と言われた。まさか。
後日、血液検査の結果が出た。娘は「小麦・卵・牛乳・大豆・ナッツ類・ソバ」の食物アレルギーだった。とくに小麦の数値が高かった。小麦は反応が劇的になりやすく、呼吸困難を伴うアナフィラキシーショックを起こす危険性が高いという。これは好ききらいの問題ではなく命にかかわることなのだ。そう言われて愕然とする。
うそでしょ。娘が? パンもうどんもケーキも食べられないってこと? ショックだった。娘は何も知らずに抱っこひもでスヤスヤ眠っている。これからどうすればいいのか。
病院からの帰り道、喉がカラカラで、そういえば何も飲んでいないことに気がついた。自販機で瓶入りの炭酸飲料を買ってひとくち飲み、バッグに入れようとした瞬間、瓶を地面に落としてしまった。割れて散らばったガラス、しゅわしゅわとアスファルトに吸い込まれていく炭酸飲料。抱っこした娘に注意しながらしゃがみ、粉々になったガラスの破片をかき集めながら、わたしは泣いた。
いや泣いている場合じゃない。彼女が生きるためには除去食(アレルギーのもとになる食材を除去する食事)、つまり食事制限をするしかないのだ。そこから娘とわたしの、食物アレルギーとの長い長いつきあいがはじまった。
娘はパンが食べられない。ふわふわのスポンジケーキも真っ白なホイップクリームも、真っ赤ないちごのタルトやパステルカラーのマカロンも。お姫さまが食べていそうな、かわいくてキラキラしたスイーツは、娘はみんなみんな食べられない。
だったら。
お姫さまになるには、ドレスを着ればいいじゃない。
そうよ、パンが食べられないのならドレスをつくればいいじゃない!
そうしてわたしは、娘のドレスをひたすらつくりはじめた。ふわふわのチュール、真っ白なレースやフリル、バラやリボンをあしらったパステルカラーのドレスたち。お姫さまのようなドレスをたくさんたくさん作った。
娘がじぶんで服を選ぶようになってからも、食事に制限があるのだから、服にはいっさい制限をかけない! という確固たるポリシーのもと、いっさいの口出しをせず、娘の着たいものを好きなように着させた。その結果として普段着としてドレスを着るようになってしまったけれど。毎日ドレスですが、それが何か?
たまに「絶対にキャラクターものの服は着せない」というおしゃれママさんもいるけど、わたしは全身プリキュアでもコスプレでもどうぞどうぞと思っていた。だってプリキュアはすごいよ。あの子たち何かと闘っているのだから。闘うプリンセスの戦闘服。
あなたはこれからたくさんのことと闘っていかなくてはいけない。でも大丈夫、援護する。だって、衣装係はここにいる。姫君のお召しもののお支度をする召使いがここに。闘うプリンセスを後方支援する最強の召使いに、わたしはなる。
その気持ちは、今も花嫁さまのドレスをつくるわたしの大きな原動力になっている。
さて、ここからは少し、前提条件として娘のアレルギーが発覚するまでの、わたしの洋裁歴について書いてみようと思う。娘の召使いになってからのことが読みたい方は目次から「毎日ドレスですがそれが何か?」までどうぞ。
社会人バックパッカー、ドレスに出会う
わたしがウェディングドレスに出会ったのは、社会人バックパッカーとして1ヶ月の放浪の旅に出た20代なかばの頃だった。経由先のバンコクでタイシルクのウェディングドレスに出会い、次の目的地ロンドンで友人に落ち合ったときには「わたし、ウェディングドレスの仕事するわ!」と宣言していた。
その後、タイ語を学び(ドレスをつくるためにまずタイ語を学ぶってとこがすでにおかしい)とりあえずじぶんのウェディングドレスをタイでつくってみた。正確にいうと、じぶんでデザインしてタイ語で仕様書を書き、ドレスの工場さんに縫製していただいたのだ。アパレルの企画デザインをしていたので、このときはまだ仕事の延長という感覚だった。
しかしその後はいろいろあって、数年間ドレスの夢を封印していた。もう一度その夢への扉を開けたのは、娘だった。
夢を忘れかけていたころに、その夢を思い出させてくれる存在がある。わたしの場合は間違いなく娘だった。娘がお腹のなかにいるとわかったとき、なぜか封印していたドレスへの夢が蘇ってきた。きつく縛っていた結び目を解いたら、繻子織のリボンがしゅるしゅるとほどけ、箱のなかから真っ白なレースやふわふわのフリルがキラキラと踊り出してきた。
その話をしたら娘は「ドレスを作ってもらおうと仕向けたんだよ」とニヤリとしていた。案外そうなのかもね。だって今までたくさん作ってきたもの、あなたのドレスを。
わたしはもともと手先が器用で手芸も大好きだったのだが、中学の家庭科の先生とウマが合わなくて、みんなと同じ服を作ることにも興味が持てなかったので、成績はなんと10段階で2だった。(これは花嫁さまたちにはナイショね)だから、洋裁にはあまりいい思い出がなかった。
それを払拭してくれたのが、手芸関係の仕事をしている友人だった。彼女に教えてもらいながら作ったマタニティワンピース。これで苦手意識がなくなって、すっかり洋裁に目覚めた。そこからの追い上げはすごかった。
いちどせき止めていたものが外れると、あとはもう大放出。あふれんばかりの情熱を注ぎ込んで、育児休暇中にじぶんや娘の服を作り続けた。家事をしながらデザインを考え、子どもが寝ている間に裁断し、おんぶで娘を背負いながらミシンをかける。娘の昼寝の合間に1着完成させるのもざらだった。公園デビューなんかしてる場合じゃない。5分でもあったら服を作りたいんだもの。とにかくものすごい集中力と情熱で服を作り続けた。もはや狂気。
そのおかげで、教えてくれた友人も驚くほどのスピードで洋裁が上達した。楽しくてしかたがなかった。じぶんで作れればアイデアを思いついたらすぐ形にできるのだ。まるで翼を手に入れたような気分だった。
毎日ドレスですが、それが何か?
そんな日々を送っていたさなかに、娘のアレルギーが判明した。
その日から、わたしと娘の長い長い食物アレルギーとの闘いがはじまった。小麦・卵・牛乳・大豆のアレルギーなので、米と野菜と魚と肉が中心の食生活になる。つねに食品表示とにらめっこする日々だ。冷凍食品や加工食品にはだいたい卵や乳製品が入っているため、食事はすべて手づくりの除去食。慣れるまではかなり大変だった。でもいちばん大変なのは娘なのだ。
こんなふうにして娘には「食べ物」に対して厳しい制約がかかることになった。だからこそ「着る服はいっさい制限しない」という方針ができあがったのだ。
とくに生後10ヶ月でアレルギーが判明してからは、「パンが食べられないのなら、ドレスを作ればいいじゃない」をスローガンに、これでもかと娘のドレスを作るようになった。思いついたら手持ちの材料ですぐに作りたかったので、ドレスはリメイクで作ることが多くなった。こうしてわたしはリメイクに目覚めてゆく。
娘が1歳になる少し前くらいから、専門学校に通って本格的にお直し技術を学ぶようになった。週に1日程度、2〜3時間ほど夫に娘を預けて学校に通った。リメイクとお直しに特化した理由は、アパレル時代の経験からだ。もしも服を仕事にするなら、オーダーメイドとお直しを中心とした、在庫を持たない仕事がしたかった。それに単純にリメイクが楽しかったというのもある。
幸運だったのは、その専門学校の先生が、ウェディングドレスのアトリエご出身だったこと。わたしはお直し技術だけではなく、オーダーで型紙を起こし、いちからドレスを制作する技術までも教わることができた。授業料は1回8000円と決して安くはなかったけれど、オーダーとリメイク両方の技術が習得できたのは大きかった。今はもうその学校はなくなってしまったけれど、わたしはほんとうにラッキーだったと思う。
その学校のよかったことがもうひとつ。ひと通りのお直しを学んで中級まで進むと、学校が名刺を作ってくれる。その名刺を配りまくって、「今お直しを勉強中なので、協力してください。通常より格安でお直しできます」と、仕事を取ってくることができるのだ。それを授業で教材としてお直しをすると、めちゃくちゃ上達するのだそうだ。これはとても理にかなっている。
この「名刺システム」もわたしにはぴったりだった。「こんなにたくさん仕事を取ってきた人は他にはいない」と先生方に驚かれるほど、たくさんのお直しをした。もちろんこれには授業料がかかる。お直し代をいただいても、毎回大幅な赤字になってしまう。いったいどれだけの時間とコストをかけただろう。ちょうどこの頃会社を辞めて独立していたので、退職金があったのもよかった。
わたしが「どうやったらドレスデザイナーになれますか?」と聞く彼女たちに言いたいのは、「ほんとうに好きでやりたいことで時間とコストをかけて努力を重ねていけば、どんな道を通ったとしても結局そこにたどり着く」ということだ。
少なくとも技術の習得に関しては、学ぶ環境などはそこまで関係なくて、とにかくやった分量と、かけた時間とコストに比例するのではないだろうか。それは才能ではなくて、もはや狂気だ。そこまでわたしが情熱を傾けられた原動力はなんだったのか。
それはやはり、ウェディングドレスが好きだということと、「姫君を後方支援する最強の召使いに、わたしはなる」という、強い気持ちから来ていたのだと思う。
めくるめくドレスたち
それでは娘のめくるめくドレスたちを少しご紹介。(注:すべて個人で楽しむために制作)
この白いドレスは、保育園の卒園式と、小学校の入学式に着たドレス。娘の書いたデザイン画から作った。
入学式でドレスを着て元気いっぱいに入場する娘を見て、後ろに座った保護者が、「あれってさ、絶対親が着せてるよね」とヒソヒソ話しているのが聞こえた。
違うし。あれは娘がデザイン画を描いて、「ポケットはハートにしてね」と明確な指示までして、わたしはそれを忠実な召使いとして作っただけだし。
娘は「かわいそうな子」ではなく「姫」
「あれって親のエゴで着せてるんだよね」そんな風にいう人はどこにでもいる。たしかに娘をまるで姫君のように育てたのはもちろんわたしのエゴでもある。それは否定しない。
ただ、娘を「かわいそうな子」にしたくなかったというのもある。娘は悲しい思いをいっぱいしてきたと思う。外食はもちろんのこと、お友だちの誕生会にも気軽に参加できないし、食べられなくて悔しい思いをさせたことも、発作で何度も入院したこともある。だから、ここはあえての「姫モード」なのだ。
保育園では、コンタミ(コンタミネーション。アレルゲンが混入すること)を避け、給食時には娘だけみんなから少し離れたひとり席で食事をしていた。それが、普通だったら「かわいそう」な印象になるかもしれないのだが、娘の場合はなんだかそれがやけに「姫」っぽくて、ああ、あの子は姫だから特別席なのね、と思わせる雰囲気を醸し出していたのが不思議だった。もうこうなったら「姫」として、うまいことみんなに助けられながら生きていってくれ。それもある意味、生存戦略だ。
でもうちの娘は、ただ守られているだけの姫ではなかった。言いたいことはちゃんという。娘はいつの間にか、ちゃんと「闘うプリンセス」に成長していた。
怒りでプルプルするほど悔しかったこと
保育園や小学校では、「食物アレルギーの娘のことを理解して、みんなで気をつけていこう」というスタンスだった。わたしのチェックがもれていた給食の献立に、お友だちが気がついてくれたこともある。ところが中学に入ってからは状況が変わった。
入学式の後、学年主任とアレルギーのことについて話した。50代くらいのベテランの男性教員だ。彼はこう質問した。
「あの、牛乳のアレルギーなんですが、空気に触れたり飛沫で反応されることはありますか?」
「いえ、それはないです。うちは経口時の反応のみです」
なかには、アレルゲンと同じ空間にいるだけで、アレルギー反応を起こしてしまう子もいるのだ。娘はその反応はなく、食べたときの反応(経口反応)だけだった。
「よかった。飲み残しの牛乳のバケツを、教室内に置いているもので」
そこまで心配してくれているんだ、と一瞬よろこんだがそれは違った。
「もしも空気中もダメだったら、バケツを廊下に出さないといけませんので。そうしたらこのクラスにそういう子がいるってバレてしまいますので」
はあ?
何? うちの子は「そういう子」だから、隠しておかないといけないってこと? いじめのターゲットにされるから? 食物アレルギーは隠すべきことなのか。
ふざけんな。そういう体質がかえっていじめを助長させるんじゃないのか。それに、周知せずに隠すことでアレルギーのトラブルが起きやすくなるんじゃないの?
その時はあまりにもびっくりして怒りでプルプルしてしまった。言い返そうと言葉を探していた時、娘が小さい声でわたしに言った。
「大丈夫だよ。仲のいい子にはわたしから話すから」
そう、娘はうまくやるだろう。コミュニケーション能力が高く、周りも助けてくれる。それだけでなく、嫌なことは嫌と言える強さも持っている。強くなったな、と思う。
この時のくやしい気持ちを、娘は高校生になってからエッセイに書き、賞をもらっていた。それくらいたくましく生きていかないとね、いいぞ、娘。
負荷試験は母娘の大事な時間だった
娘のドレスを作りまくっているうちに、わたしの技術も磨かれ、ドレスの仕事も軌道に乗ってきた。
娘が小学生になって、あまりドレスを着なくなった頃から、時期を同じくしてわたしの仕事がかなり忙しくなった。食事やお弁当は完全手作りで頑張ってはいたけれど、仕事と家事と育児の両立は、決して楽なことではなかった。中学生になると娘も思春期に入り、お互いがギクシャクすることも多くなった。
けれども、そんなわたしたちをもう一度結びつけてくれたのも、食物アレルギーだった。
負荷試験と言って、アレルゲンとなる食材を医師の前で少量ずつ食べてみて、反応を見ながら段階的に食べれる量を増やしていくという治療法がある。
これにはリスクもあるので、対応できる医師と、何かあったときの施設の体制も必要となる。だからお医者さんが大きな病院から独立してしまうと、その治療が続けられないこともあった。娘は小学校低学年くらいでうどんを2センチ、ヨーグルトは2口まで負荷試験が進んでいた。ところがヨーグルトでアナフィラキシー反応が出て、急きょ入院になってしまった。その後は先生が独立されたこともあって、負荷試験は中断していた。
コロナ後、娘が中学2年の時に大きな病院で負荷試験を行っている医師を紹介してもらい、治療を再開することになった。はじめての診察に行くと、待合室は小さな子どもばかりだった。中学生の娘はかなり大きいほうだ。負荷試験はもっと小さい子が受けるものなのだ。
娘は先生の前でわたしを責めるような口調で、「なんでもっと早くやらんかったんよ」と言う。きっと仕事で忙しかったわたしを責めているのだろうと思った。
「だって、こわかったから」
そう、わたしはこわかったのだ。もしもまた反応が出たらと思ったら、こわくて、躊躇していた。
先生はわたしのその言葉を聞いて、
「そりゃ怖いよねえ。親やったら怖いわ」
と言ってくれた。わたしは泣きそうになった。この先生のもとで負荷試験をやってみようと思えた。娘にも、「こわかったんだよ」とちゃんと伝えた。「生きてくれているだけでいい」と思っていることも。そこからは、娘との関係も徐々に良くなっていったように思う。ちゃんと言葉で愛を伝えるって、大事なんだな。
負荷試験は2ヶ月にいちど、山の上の病院で「日帰り入院」というかたちで行う。これがまた病院とは思えないような景色で、まるで入院じゃなくてリゾートホテルに居るようだった。
食べて反応を見るだけなので、基本はずっと待ち時間になる。待ち時間の間、ふたりで話をしたり、たまに勉強をしたり、いっしょに昼寝をしたり、テレビで韓国ドラマをみてみたり、東京オリンピックの女子スケートボードでそれぞれの演技を讃え合う女の子たちを見て、胸を熱くしたりした。ライバルと闘うのではなくて、みんなで喜びあうっていうのがいい。シスターフッドだ。シスターフッドとは女同士の連携のこと。この時代の乗り越え方を、彼女たちはわかっている。新しい時代の、新しいプリンセスたち。
2年間の負荷試験によって、娘はなんと小麦を食べられるようになった。牛乳と卵そのものはまだ厳しいが、焼き菓子なら大丈夫だ。
そう、娘はパンを食べられるようになった。
コロッケ感動秘話
小麦はかなり大きい。うどんもパンも、クッキーも食べられる。食べられるようになった娘がいちばん感動したのが「コロッケ」らしい。
うどんやお菓子類は米粉などでだいぶ代替対応ができていた。難しかったのはコロッケだ。卵やパン粉などつなぎになるものが使えないので、油で揚げたらパーッと分解してバラバラになってしまう。
生まれてはじめて娘が揚げたてコロッケを食べたときの感動ははかりしれないものだったようだ。娘はそのときの感動と、そして中学の時のあの学年主任のことをエッセイに書き、とあるエッセイ賞の高校生の部で入賞していた。ふふん。書いてやったぜ学年主任。
「エッセイ読まれました? お母さんすごいですね、愛ですね」
担任の先生にそう言われたけれど、わたしはまだ読んでいない。どうやらわたしのことも書いてあるようだ。でも娘がどこかに隠してしまった。まあいいか。いつか結婚式で朗読してくれる日を楽しみにしていよう。わたしの作ったウェディングドレスを着て。
お母さんたちと泣いたあの日のこと
わたしが今まであまり書いてこなかった娘のアレルギーに関して書いたのには理由がある。食物アレルギーに関してもう少し世間の理解が進んでもいいと思っているからだ。そのことで防げる事故もきっとあるだろう。
わたしには今まで「この悩みをひとに打ち明けたところで、きっとわかってもらえないだろう」という諦めがあった。見た目にはわからない。難病でもない。でも娘の命がわたしの作るご飯にかかっているという重さ。その重さに耐えきれなくて、台所でお酒を飲んで気持ちをごまかしていたこともあった。
娘が保育園を卒園する前、給食での食物アレルギーの事故がニュースになっていた。そのため小学校では給食のアレルギー対応(除去食や代替食)ができなくなり、お弁当を作って持たせることになった。ほんとうに大丈夫なのだろうか。正直不安だった。保育園のお別れ飲み会で保護者にその不安をつい、もらしてしまった。
すると、小学校もいっしょになるお母さんがたみんなが、「みんなで守っていこうね!」と言ってくれた。うれしかった。わたしの悩みなんて特殊すぎて誰にもわからない、と思っていたけれど、そうではなかった。聞けば、みんなにもそれぞれの悩みがあった。ダウン症のきょうだい児、シングルマザー、発達障害…。みんな、言っていないだけでそれぞれの不安や悩みを抱えて、表向きにはわからないように明るく頑張ってきていたのだ。わたしたちはビールを飲みながらおいおい泣いた。悩みは違っても、わたしたちは共感しあえる。シスターフッド。
いま、ありがたいことにお母さまのウェディングドレスのリメイクを多く手がけている。お母さまにお会いすることも多い。子育てにはいろいろある。表には出されないけど、ここまでお嬢さんを育てるには、大変なこともたくさんあったと思う。
「あとはおまかせください」わたしはいつもそんな気持ちでいる。プリンセスを後方支援する最強の召使いとして。
「新しく未知の世界に飛び込むプリンセスが、自信と勇気を持てるような美しいドレスが作れますように」
娘のドレスを作るために、そして孫たちのために
「お母さんは、どうやっても、ドレスを作る運命になってたんだと思うよ」娘のその言葉にはつづきがある。
「わたしのウェディングドレスを作る運命にね」
でしょうね。
たぶん、あなたのドレスを作ることになると思う。それは間違いない。でもどうしよう、その目的を達成してしまったら、燃え尽きてしまうのではなかろうか。
いやいやそれはいかん。だって、花嫁さまたちと約束しているもの。「長生きしますね」って。わたしのドレスを着た花嫁さまのベイビーは、わたしの「孫」というシステムになっていて、わたしにはすでに「孫」がたくさんいるのだ。
孫たちのドレスを作るまでは、わたしは死ねない。歯も弱くなって、硬いフランスパンが齧れなくなったとしても、わたしはドレスを作るんだ。
「パンが食べられないなら、ドレスを作ればいいじゃない!」
そう言いながらね。
最後までお読みいただいて、ありがとうございました!