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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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倭人を招待?ナゾの記念式典を追う??

竹嶺を開く。倭人、来聘す。阿達羅尼師今五年三月=新暦158年4月頃 →新暦158年4月頃、新羅の第八代王の阿達羅尼師今は、忠清北道丹陽郡と慶尚北道栄州郡の間に、竹嶺の道を開設した。倭人が来訪した。 倭国と相い・・・・・嶺・・・・・。 王暦第一、第八阿達羅尼叱今条『三国遺事』倭人伝 →(新暦158年4月頃?)(新羅の阿達羅尼叱今は?)、倭国と会合し・・・・・(竹?)嶺・・・・・。 GoogleMapより引用 阿達羅尼師今とはだれ? 新羅の第八代王(154〜184)

実は平均気温は一定ではない??気候区分で時代をわける?

温暖な時期、寒冷な時期は繰り返す。 古気候学に基づいた時代をまとめてみた。明確に記載されている場合は、そのまま書きました。多くは、「年前」で表記されてるので、-2000年してBCを付けた、単純な置き換えです。ご注意あれ。その他、便宜上「〜寒冷期」「〜温暖期」と付けたり、してわかりやすくしています。古気候学で教科書レベルまで確定させた底本となるような教科書はまだないのです。ビジュアル的でないので、途方もなくとっつきにくい。今後の発展を期待しています。 参考:『地球全史スーパ

気になる??お茶伝来より前の生活?

お茶がなかったら?なんて想像したことありませんか? 白湯なんです。ようは、単なるお湯です。 お茶以前の文化残っていました!興味深く思ったので、書き記したいと思います。 お茶とは中国から伝来したオチャのこと。 伝来の文章弘仁6年(815年)「大僧都である永忠が、近江の梵釈寺において、嵯峨天皇に茶を煎じて献上した」『日本後記』を現代語訳した 永忠は、805年に最澄のお世話役をしていた方です。最澄は天台宗比叡山の開祖です。永忠は、最澄とともに日本に帰国しました。宝亀年間(

倭人飢えるって??押し寄せられた新羅?

北東アジア大寒波襲来だったのか?!飢餓に苦しむ、ヤバイ記憶! 四月。京都雪・深さ三尺。夏五月。大水。山崩十余箇所(『三国史記』伐休尼師今九年四月=新暦192年5月)京都とは、新羅の首都慶州。三尺≒69cm(23×3古代中国の長さから計算) →新暦192年5月、新羅の首都慶州は大雪に見舞われた。深さは70センチ近くに上った。新暦6月は、豪雨洪水があり、山崩が数10箇所で発生した。 倭人、大いに餓う。来たりて食を求むる者千余人なり。(『三国史記』伐休尼師今十年六月=新暦19

なんだって?倭国と大和が手を組んだ??

本当ですか?大和王権と北部九州倭国が手を組んだ!?だと? 九州王朝理論とは古田武彦氏が提唱した説で、北部九州の地域に九州王朝があったとする説です。中国の歴史書に出てくる倭国とは、北部九州の連合国家のことであり、近畿のことではないのだと。 一元史観と多元史観王朝は日本書紀によれば一つだけだが、しかし、複数の王朝がかつて存在していたとなります。学校で教えられる日本史は基本的に日本書紀の仏教伝来時代からスタートします。それ以前は中国の歴史書に頼りますので、その時、倭とは日本のこ

教えて?縄文弥生の分け方

初見者中堅者泣かせなのでまとめてみた。 ○縄文草創期(約1万3千年前〜約1万年前)≒BC1万1000年頃〜BC8000年頃 ○縄文早期(約1万年前〜6千年前)≒BC8000年頃〜BC4000年頃 ○縄文前期(約6千年〜5千年前)≒BC4000年頃〜BC3000年頃 ○縄文中期(約5千年〜4千年前)≒BC3000年頃〜BC2000年頃 ○縄文後期(約4千年〜3千年前)≒BC2000年頃〜BC1000年頃 ↓ここから異説アリ↓ ○縄文晩期(約3千年〜2300年前)≒

朝鮮海峡を渡った??鍛冶屋と商人たち?

家電もなかった時代。どんな生計をたててたのか? 北部九州〜朝鮮半島での鉄北部九州の倭人らは鉄資源を求めて壱岐対馬を経由し、半島の鉄の生産、取引を行っていました。 克明に書かれています“国出鉄、韓濊倭皆従取之“  (弁辰)国は鉄を出す。韓・濊・倭は皆従い之を取る。“ 鉄とは鉄は国を支える最重要の金属です。鉄は農業で使う桑だったり、武器に使うことができます。なかったらと考えるとギョッとします。 なんとかこうにか生きていくいつの時代も人は生計を立てるのに必死です。生きなくて

鮎釣りはいつから??歴史書に発見?

鮎釣りを見つけた。いつだ?今も昔も変わらないね。変わったらこわーい。 現代の鮎釣り鮎釣りは現代、5月後半から6月遅くは9月まで行われている。 6月初日から漁が解禁され、て大勢の人々が鮎釣りにやってくる。 『日本書紀』の世界今回散策していた『日本書紀』の箇所は、神功皇后。神功皇后の時代は、350年ころから390年らしい。(天皇にカウントされている) 時期は?鮎釣りを神功皇后は四月にしたとしている。この四月は旧暦の四月で、現代でいうと5月か閏年が近くなると、6月に若干被る

頭入らない??倭の五王おしえて?

倭の五王はナゾ満ちている。 倭の五王一覧①倭王讃 ②倭王珍 ③倭王済 ④倭王興 ⑤倭王武 血縁関係①倭王讃 ②倭王珍     ③倭王済 ④倭王興 ⑤倭王武 彼らについて有名なお話は、近い血縁関係がない薄いということが一般的に言われています。血縁関係で区分するとこうなります。 血縁関係+兄弟分け ①倭王讃(兄)と②倭王珍(弟)    ③倭王済(父親) ④倭王興(兄) ⑤倭王武(弟) 大きな断絶②倭王珍(弟)   ③倭王済(親)の間で大きな断絶がありますが、これが血縁

朝鮮半島にもあった??倭国の国?

朝鮮半島の南には倭国のエリアがあったと言われています。 歴史書を見てみると中国の歴史書、三国史韓伝に、弁辰瀆盧国(現在の東莱郡)は倭と界を接すと書かれています。 東莱郡(釜山周辺)は釜山のあるエリアのことで、界を接すような位置にあるエリアは洛東江を挟んだ西側にある金海市になります。みんなご存知、空港がありますよね。金海市はかつて金官国と呼ばれ、また、倭国側からは任那とも呼ばれました。中国の歴史書でいくと、狗邪韓国とされています。 発音は違った?ちなみに、狗邪韓国は音を写

神功皇后の新羅遠征は予定外だった??

倭国からの甘言 神功皇后の新羅遠征に想定される年は?364年?とされる時代に、神功皇后の新羅遠征がありました。 実は新羅遠征は予定外?『日本書紀』記事を読んでいくと、神功皇后とその夫の仲哀天皇には新羅遠征の予定はなかったように見受けられます。神功皇后と仲哀天皇は、山口県に6ヶ月も停泊していました。 仲哀天皇、神功皇后一行らが関西から九州に向かった理由としては、熊襲(熊本鹿児島あたりの異族)の討伐でした。まずは山口県で兵力を確保していたのでしょうが、事情が様変わりしました

ひゃくしょうではない??「百姓」の本来の意味?

百姓(ひゃくしょう)、それは農業で生計を建てている人。 と言われておりますが、元々はそうでなかった!? 漢語の「百姓」 百姓はヒャクセイと発音されており、中国では論語が編纂された紀元前6世紀ころ天下万民、つまり、民衆を示す意味で用いられていた。現代に至ってさほど大きな意味の変化は起きていない。 日本の百姓日本における百姓の用いられた初めは、おそらく、日本書紀だ。日本書紀は720年(2020年から見るとちょうど1300年前)に完成した。日本の歴史書だ。日本書紀は漢語を用い

首都が大阪だった??時代があったのか?!

大阪にも都(天皇のお住まい)があったことを皆さんご存知でしょうか?歴史の教科書にしれっと載っていたので記憶ある方多いと思います。 今回は大阪に都があった時代のみを取り上げて記事を書きたいと思います。 大阪に都が置かれた時代の一覧応神天皇(大隈宮=東淀川区) 仁徳天皇(難波高津宮) 孝徳天皇(難波長柄豊碕宮)645計画〜652年竣工前期難波宮〜654年 655年〜飛鳥板葺宮〜683 天武天皇(難波京)683年〜 聖武天皇(恭仁京→難波京)726着工〜744難波宮に移る(後期