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神功皇后の新羅遠征は予定外だった??

倭国からの甘言

神功皇后の新羅遠征に想定される年は?

364年?とされる時代に、神功皇后の新羅遠征がありました。

実は新羅遠征は予定外?

『日本書紀』記事を読んでいくと、神功皇后とその夫の仲哀天皇には新羅遠征の予定はなかったように見受けられます。神功皇后と仲哀天皇は、山口県に6ヶ月も停泊していました。

仲哀天皇、神功皇后一行らが関西から九州に向かった理由としては、熊襲(熊本鹿児島あたりの異族)の討伐でした。まずは山口県で兵力を確保していたのでしょうが、事情が様変わりしました。

北部九州倭国から手が伸びる

北部九州には倭国があったようです。伊都県主、岡県主という王?でしょうね。彼らがやってきて、倭国領に誘導しました。

大掛かりな船をこしらえて、神功皇后一行を迎え、

福岡の郊外の橿日宮(現在の香椎神社の位置)に案内されます。香椎神社は、福岡郊外の小高い丘に立っており、博多湾が見渡せます。300年代のむかしはというと、別荘地だったのでしょう。

賓客扱いの意味

倭国の方々が、神功皇后一行を賓客として扱ったのです?ではなぜ賓客として扱ったのでしょうか?

ヒントは伊都県主の言葉にありました。

これ(熊襲=神功皇后仲哀天皇らが狙う国)、そそしのむなくにぞ。(宝もなにもないしけた国よ)
宝ある国(新羅)、たとえば、処女(処女)のまよびきのごとく...金・銀・うるわしきいろ、さはに其の国にあり。これをたくぶすま新羅の国といふ。

伊都県主(倭国王?)が神功皇后らを、新羅遠征に協力させるべく説得する時に使った謳い文句です。熊襲行くよりも断然、新羅を討った方が得だよ。とね。

まとめ

神功皇后ら一行は新羅遠征のために九州に来たのではなかった。

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