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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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#聖徳太子

聖徳太子の年表まとめ

新たな発見をしてください。 今回は、梅原猛氏の『聖徳太子』を参考にしてまとめてみました。参考図書です。 興味ない方も本だけチラっと 506蘇我稲目誕生(〜570) 538年仏教が公レベルで伝わった 545百済が欽明天皇のために丈六の仏像を造った 551蘇我馬子誕生(〜626) 552百済の聖明王が仏像・経論を献上し、蘇我稲目が向原の家を清めて寺とした。 570物部尾尾輿らが寺を焼き仏像と経論を難波江に流した、蘇我稲目が死去。 574(1)聖徳太子誕生(以後は厩戸王

聖徳太子じゃないのか?

初期の日本仏教の真の功労者に迫る。信頼できる「ある本から」まとめてみました。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日の説仏教伝来は蘇我稲目、仏法再興ををしたのは蘇我馬子、経典の注釈と講説を行ったのは厩戸王(聖徳太子) 仏教伝来の蘇我稲目仏像や経典等を百済から日本に導入しました。しかし、無残にも疫病の責任を背負わされたあげく、仏像は焼き捨てられました。 仏法再興の蘇我馬子物部を撃破し仏教が初めに興隆されるきっかけを作りました。日本初の壮大な寺院である法興寺(飛鳥寺)

気になる隋文帝に派遣した理由(井上光貞氏)

なぜ倭国は100年ぶりに隋に使者を派遣したのでしょうか?「ある本の中から」オッと見つかったので、紹介していきたいと思います。 →ある本はこちらからご覧いただけます 気になった本日の説600年の初めての隋へ使いを派遣した理由は、隋の冊封体制が新羅にもおよんだから。新羅との任那問題の解決には新羅の主君となった隋文帝との交渉が必要になった。 根拠581年、隋が建国されたあと、朝鮮諸国の動揺を機ととらえて軍を筑紫に送り、新羅を威嚇して任那の検疫を回復しようとした。しかし、594

東西の天子②(東野治之氏)

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 少し違った記述が見られたので、東野治之氏の「ある本の中から」紹介していきたいと思います。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日気になった説 隋の煬帝が怒った理由は、全世界に1人しかいないはずの「天子」を、東方の野蛮人の国である倭の君主が名乗ったことである。 根拠「日出づる処」、「日没する処」は、『大智度論』という仏典から出た言葉である。隋の煬帝は熱心な仏教信者として、父の文帝と同じように菩薩戒を授かってい

聖徳太子が日本仏教の開祖になるまで(吉村武彦)

今日紹介するのは、吉村武彦氏の『聖徳太子』です。とても客観的に書かれた一冊だと思ったので、共有してみたいと思います。 学んでみたい方はこちらをどうぞ 本日の説『日本書紀』の段階では厩戸王子は仏教興隆上の歴史的人物ほどの評価はされていなかった。厩戸王子は傑出した仏教理解者であった。厩戸王子の死後、近親者から厩戸王子の神格化が進んでいった。初期の太子信仰が進展したきっかけは730年代(天平年間)だと考えられる。奈良時代後半から、多くの仏教説話集が編集された。『日本霊異記』『三

厩戸王関連の年表

まとめてみた。 574年(敏達天皇三年)厩戸王子誕生(数え1歳) 587年(用明天皇二年)七月、蘇我馬子が厩戸王子らを率いて物部守屋を滅ぼした(数え14歳) 592年(崇峻天皇五年)摂津国難波に四天王寺を建立した 593年(推古天皇元年)四月、厩戸王は皇太子になった。(数え20歳) 594年(推古天皇二年)二月、推古天皇と厩戸王子と蘇我馬子が仏教興隆の詔を下した。(数え21歳) 595年(推古天皇三年)五月、慧慈(高句麗の僧侶)が厩戸王子の師となった。(数え22歳

まだ神格化されていない

厩戸王はまだ大したことなかった?厩戸王は仏教興隆の開祖ほどの神格化される人物になっていきます。しかし、645年の段階でまだ歴史上の人物ほど威厳はなかったことがわかる記述がありました。 645年「大化の僧尼詔」欽明天皇十三年に百済聖明王が仏法伝来と蘇我稲目を支援したこと。 敏達天皇の時代、蘇我馬子が仏法を信奉したこと。 推古天皇の時代、蘇我馬子が仏像を作らせ、僧尼が恭敬したこと。 ないですねえ厩戸王について720年完成の『日本書紀』でもまあまあ称賛していたのに、ここに来

聖徳太子がバリバリ蘇我系のわけ

聖徳太子は蘇我系に生まれました。むかし当然OKとされていた、2020年の感覚からすればなんとなく「近親婚」をみながら、聖徳太子(厩戸王)の出自を見ていきましょう。 厩戸王の父上?用明天皇です。用明の両親はというと、欽明天皇と堅塩媛(姉)です。この堅塩媛とは、蘇我稲目の娘さんです。 厩戸王の母上は?穴穂部皇女です。穴穂部皇女というと、欽明天皇と小姉君(妹)との間に産まれた皇女です。この小姉君も、蘇我稲目の娘さんです。 厩戸王のお嫁さんは?刀自古郎女(とじこのいらつめ)です

【聖徳太子】イエスなのか?ブッダの生まれ変わり?

(穴穂部間人皇女の)懐妊開胎(みこあれま)さむとする日に、禁中(宮のうち)に巡察(おはしまして)して、諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち厩の戸に当たりて、労(なや)みたまはずして忽(たちま)ちに産(あ)れませり。 →西暦574年、用明天皇の后である、皇后(穴穂部間人皇女)の出産予定日に、皇后陛下は各部署を巡察されていた。馬の部署に来られた時、馬屋の戸にあたられた拍子、厩戸皇子を難なく出産された。 仏教ではお釈迦様を出産の際、マーヤー夫人が、出

聖徳太子のなまえ何処に...

『日本書紀』から「聖徳太子」の他の名前を列挙してみた。ありまへーん。 586年一月厩戸皇子「ウマヤトノミコ」 586年一月豊耳聡聖徳「とよみみとしゃうとく」 586年一月豊聡耳法大王「とよとみみののりのおほきみ」 586年一月法主王「のりのうしのおほきみ」 586年一月是の皇子「このみこ」 593四月厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ) 593四月上宮厩戸豊聡太子「かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ」 594二月皇太子「ひつぎのみこ」 6

教科書に載らない古代の道路建設?(昔むかし)

推古二十一年(613)年十一月、難波より京に至る大道を置く →西暦613年12月、難波から京(飛鳥)に至る大きな道路を敷設した。 (↑画像の引用元) ルートの解説竹内街道のことと言われています。大阪と奈良の県境あたりでクネクネしています。そこが竹内峠です。現在の国道165号線166号線です。 道路の幅は20メートル道幅がひろい。20mあれば4車線?うんわからん。くらい行けそうな感じ。所々発掘された箇所から幅20mと推定されたみたいです。 今残ってないぞ今、そのままの

増えていた??冠位十二階?

かれこれ冠位?階になりました?。見やすくまとめました。 ⭕️604年、冠位十二階(推古天皇)1大徳・2小徳・3大仁・4小仁・5大礼・6小礼・7大信・8小信・9大義・10小義・11大智・12小智 ⭕️648年、七色の一十三階の冠(647年制定)(孝徳天皇)1大織・2小織・3大繍・4小繍・5大紫・6小紫・7大錦・8小錦・9大青・10小青・11大黒・12小黒・13建武 ⭕️649年、冠位十九階(孝徳天皇)1大織・2小織・3大繍・4小繍・5大紫・6小紫・7大花上・8大花下・9小

東の天子 人がちがう?

隋の煬帝に送った、有名なフレーズ。しかし、そこにはちがう名前が書かれていた。 学校の歴史教科書は『隋書』倭国伝から大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者日く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝貢せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ』と。其の国書に日く、『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と。帝之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて日く、『蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ』と →西暦607年、倭国の

違和感を感じるポスト推古天皇

第33代推古天皇の後をついだのは、舒明天皇(第34代)でした。 一つの世代が完全にスキップされる違和感しかし、推古天皇から見ると舒明天皇は世代的には孫の世代になります。 甥の子です。子の代は完全にスキップです。 天皇の位の移り変わり 事の発端は誰かと言うと、欽明天皇です。 仏教伝来で有名ですよね。 欽明天皇は5人の子供を授かります。 欽明天皇(29代)ファミリー5人男3人、女2人です。 1人目が敏達天皇(30代)です。 2人目は用明天皇(31代)です。 3