教科書に載らない古代の道路建設?(昔むかし)
推古二十一年(613)年十一月、難波より京に至る大道を置く
→西暦613年12月、難波から京(飛鳥)に至る大きな道路を敷設した。
(↑画像の引用元)
ルートの解説
竹内街道のことと言われています。大阪と奈良の県境あたりでクネクネしています。そこが竹内峠です。現在の国道165号線166号線です。
道路の幅は20メートル
道幅がひろい。20mあれば4車線?うんわからん。くらい行けそうな感じ。所々発掘された箇所から幅20mと推定されたみたいです。
今残ってないぞ
今、そのままの形では残っていないです。一部発掘されたりしています。
なぜ?
どうも使い勝手が悪かったのと時代の変化でしょう。平安京も昔は立派な大道が敷かれていました。今に残っているものももちろんありますが、消えてしまったものもたくさんあります。今ほどは区画とか自分の土地だときちんとしてなかったことは確実なので、時が経つと道の一部が草に覆われます。徐々に昔大きな道として整備したことも忘れ去られます。そして、道があったところに家を建ててまた他の人も家を建て出します。そして、大きな道路は消滅していったのだと。
難波大道は7世紀中期のもの?
難波から青色で縦に伸びる道路のこと。これが7世紀中期らしい。645年に難波長柄豊碕宮の建設を開始しているのでその時できたのでしょう。
じゃあ、竹内峠〜難波はどうなっていたのか?
(↑画像引用元)
違うと思った方
これはルートが北側の竜田越えになっています。京は岡本宮(↑の小墾田宮の少しだけ南東)です。一応通説は、竹内峠越えです。今回は大阪方面だけのために参考にさせていただきます。
大阪のルートは?
飛鳥から竹内峠までは確実。竹内峠〜難波はというと、まず石川という川を渡り、古市に着きます。そして↑の図の廃寺あとを経て難波に至る。このルートが可能性ありですよね。どうも↑の図の廃寺たちが7世紀前半のようなのでちょうど613年に道路を敷いたという記述に合致するのです。
寺は山奥か街道沿いに
国道一号線を見てもらうとよくわかります。京都東ICから一号線に降りると、浄土真宗系列の寺が多数建っております。山科別院、大谷本廟、清水寺、西本願寺。すべて国道一号線で結ばれています。大阪も御堂筋に大阪別院があります。四天王寺はというと難波長柄豊碕宮(大阪城の位置)から南に向かう道路のルート上にあります。一方で、高野山など山奥の寺もありますよね。有力者に近かったり人口が多い栄える場所か、修行のための山奥。この場所に寺は建てられる。
河内平野はまだよん
河内エリアはかつて海であったり、湖であったり、小さな川がぬう沼地でした。ところが、仁徳天皇のときに難波の堀江とよばれる水の排出水路が築かれました。徐々に水が減っていったのだと。平野とふつうの川みたいになり、江戸時代の大和川の架け替えでほぼ今の河内平野が出来上がりましたとさ。
結局?
画像の2つのルートを合成したものが、どうも難波から京への道らしい。
本当はどうなのやら。
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