ミステリー小説『魔王の島』、私なりの読み方。ヒントとホントを語ります。
「幾重もの罠を張り巡らせた真のサイコ・ミステリー」といった宣伝コピーに引き寄せられ、「魔王の島」を一気読みした。
ジェローム・ルブリ原作、2019年度コニャックミステリー大賞を受賞したフランスのミステリ小説である。
面白かった。予測に反して大きな感動も得た。
でも、事件の謎を煽る本の宣伝コピーとは、読後感の印象が少し違った。
「魔王の島」は、ネタバレなしにストーリー紹介がしづらい小説である。宣伝でも、書ける要素が限られるだろう。だから違和感をおぼえたのかもしれない。
宣伝では「反則スレスレの大驚愕」とも謳っているが、これも若干、印象が違うのだ。
私がいまの気分でこの小説を言い表すなら、
“謎解き娯楽だけに終わらない、結末に打ち震える物語”
そんな読後感を味わった。
いや、謎解きには興奮するし、ページを繰る手も止まらない。
結末も衝撃的である。だがそれは、どんでん返しなど謎解きミステリーの技巧に対する衝撃ではないのだ。
衝撃の結末においては、この小説をもう一歩、深読み出来ると確信している。
ここでは、そんなことを考察し、検証していきたい。
とは言え、あくまで個人的解釈なのでその点はご了承を。
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◆異質な目次を見逃さないで
私はミステリー小説を読むときに、まず裏表紙のストーリー要約と目次を見て、全体の流れを自分なりに想像する。
漠然とだが、あらかじめ想像しておくと世界観に入りやすい。展開のヒントを見つけることもある。蛇足だが、読むスピードも早くなる気がしている。
『魔王の島』の目次は、「第一の道しるべ」から「最後の道しるべ」までの章が事件の発端から解決編までと予測できる。
ならば最初の「二○一九年九月」は一体なんだろう?
ただのイントロならわざわざ目次に組み込まなくてもいいはずだ。
こういう違和感は大歓迎。重要な何かがあるかもしれないからだ。
もちろん、この段階ではまだ、ただの予測に過ぎないが。
◆最初の章「二○一九年九月」からの予測
目次の最初の章「二○一九年九月」はたった2ページの内容だ。
とある大学の講義で、教授が80年代に起きた「サンドリーヌの避難所事件」について話そうとしている。
しかもこの事件、どこにも記されていないという。
本筋に入る前のイントロには違いないが、教授が謎解きの命題を出し、最後には答えがわかるなどと明言している。
やっぱり意味ありげじゃないか。
では軽く事実を整理しておこう。
1)この小説のストーリーは、大学の講義内容であるということ。
2)それはどこにも記録のない80年代に起きた事件だということ。
3)この小説の原題は「避難所」だということ。
この段階で予測できることは、
1)講義で始まる話しなら、ラストは講義で締めくくられるのでは?
2)記録がないことが強調されている。最重要ポイントはそれか?
3)については補足しよう。
避難所のフリガナ「ルフユージュ」は、この小説の原題「LES REFUGES(仏語)」のカタカナ読み。邦題の「魔王の島」より、「避難所」の意味合いに注意したい。
◆展開は面白いが、謎はいっそう深まる
目次項目:「第一の道しるべ 島」
ここからいよいよ「サンドリーヌの避難所事件」が始まる。
1986年、新聞記者のサンドリーヌは、祖母の訃報を受けて不吉なムードが漂う孤島を訪れた。
そこでサンドリーヌは、1949年に起きた10人の子どもたちの死亡事故のことを知る。
この章は、サンドリーヌの行動を負う1986年のストーリーブロックと、子どもたちの事故当時が語られる1949年のストーリーブロックが交差しながら展開していく。
不可解な事故の真相に迫る寸前で、「第一の道しるべ」の章は終わる。
スリリングで映像的な場面展開に、私はページを繰る手が止まらなかった。
それと同時に、散りばめられた小さな謎がとても気になる。
例えば、文中に繰り返し出てくるゲーテの詩、シャンソンの歌詞。
島の各地で見つかる8時37分で止まった時計。
「時間は捉え方次第」という太文字での表現や、時間感覚が曖昧になる箇所。
そしてシャンソンの歌詞にも、8時37分の時刻にも、妙な既視感を覚えるサンドリーヌ。
これらは明らかに、作者が丹念に読者にアピールしているポイントだ。
でも「第一の道しるべ」章では何一つそれらと符号する事実が見つかっていない。
この時点で予測できるのは、ゲーテの詩やシャンソンは事故を表す隠喩や背後のヒントかもしれないということ。8時37分という時刻も事故に関係していそうだ。
だが時間や既視感に対するアプローチはどうだろう?
これらは事故との直接的な繋がりとは考えにくい。
「時間は捉え方次第」「時間感覚が曖昧」などは、むしろSF的だ。それはあり得ない。既視感の謎もあるので、催眠などの精神医学が絡むのだろうか。
いずれにしろ、この章では80年代に起きた「サンドリーヌの避難所事件」にまだまだ到達していない。
目次項目:「第二の道しるべ 魔王」
「第三の道しるべ 子どもたち」
この2つの章は、「第一の道しるべ」章の内容をすべて嘘だとする大胆な展開に切り替わった。驚きだ。
1949年の事故も島での出来事も嘘、サンドリーヌが誰であるかさえわからないという展開だ。
こういう流れになると、ここで語られる「嘘」すら、またひっくり返されるのではと警戒する。
そしてこの章では、さらに新たな事件が提示された。
事件を追う刑事が登場したことで、サンドリーヌの過去やここで提示された新たな事件の真相が明らかになった。
これが80年代に起きた「サンドリーヌの避難所事件」ということなのか。
事件解決寸前で「第三の道しるべ」の章は終了するが、印象としてはハッピーエンドだ。
だが違和感はいまだ残されたままである。
「第一の道しるべ」章での出来事は、本当にすべてサンドリーヌ(を名乗る女)の虚言、あるいは妄想なのか?
作者が丹念に散りばめたゲーテの詩や8時37分の意味、そして時間感覚の曖昧さ、既視感の謎も、結局、符合する事実が何一つ出てきていない。
それになぜ、警察総出で上げたこの事件がどこにも記録されていないのか?
積み上げられた謎のほとんどが置いてけぼりの状態だ。
お楽しみは、次の最終章。
◆果たして反則スレスレの結末か?
そしていよいよ最後の章「最後の道しるべ サンドリーヌの避難所」に入る。
この章の舞台は、2019年の大学講義に戻った。展開としては予測通りだ。
いよいよ教授の口から「サンドリーヌの避難所事件」が何だったのか、真相が語られた。
これこそが衝撃の結末なのである。
最も違和感のあったサンドリーヌの「曖昧な時間の感覚」と「既視感」は、やはり精神医学的な落とし所だった。
この小説を事件謎解きミステリー小説と捉えれば、この結末には納得いかないだろう。
掟破りの夢オチに近いからだ。しかもストーリーアイデアも凡庸な上、余計な情報が多すぎて冗長である。
だが、これは事件謎解きミステリーではない。
そのようにミスリードしているだけだ。
ミスリードを促しながらも、実はそうではないという伏線が丁寧に散りばめられている。
それこそが、最後まで置いてけぼりにされた様々な謎だ。
読みながら引っかかり続けていた小さな謎たちが、脳と心が作り出した「避難所」にあるとわかれば、すっと腑に落ちるだけである。
そう、この結末は必然なのだ。
物語の主軸は、事件ではない。
物語を見直せば、結末への伏線だらけということに気づくだろう。
それにはまず、この物語で実在する人物は誰か、他の人物は何の代替えだったのかを考えるとわかりやすい。
そして、私はサンドリーヌと祖母の対話から、3つめの避難所、すなわち心の第3階層目に潜ることの意味を考えた。誰の侵入も許さない、最も安全にして最も危険な避難所だ。
これはとても重厚で深遠な問題である。
私は今も、宣伝文句の「反則スレスレの大驚愕」という印象が持てない。
そう解釈もできるが、もう一歩踏み込めば違う視点で読めるからだ。
いまはこう考察しているが、また読み返せば、あるいは誰かと話せば違った考えが付加されるのかもしれない。
考えが深まることで、小説との関係がより密接になるのもまた楽しみである。
(了)
最後に……
この読書のきっかけは、Small Worldさんのレビューだった。
レビューとして紹介しづらい本書のことを、好奇心をくすぐるような書き方でまとめられている。
前に『そしてミランダを殺す』のレビューを書かれたときも触発されて読み、面白かった。感想はそれぞれ違うところもあるだろうが、レビュアーとしてとても信頼させていただいている。
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