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本の感想『一度きりの大泉の話』と映画「スタンド・バイ・ミー」からの想像

もはやnoteは週刊と化しているのでタグに「週刊にしていること」みたいなのほしいなと思わなくもないというかたった今それ思いついたばかりの、たかこです。ごきげんよう。

今週は何をしていたかというと、前半はちょっと忙しく、後半はだらだら映画を観たり読書をしていました。
ようやく読書。昨年はほぼできなかった読書。今年に入ってからは尚のことできていなかった読書。ついに復帰です。とても楽しい。
とはいえ、読書力って間が空くと想像以上に衰えているものなので、まずウォーミングアップとして読みやすい本をチョイス。湊かなえの『リバース』。感想、面白かったです。湊かなえ、恩田陸、辻村深月はよくウォーミングアップでお世話になっています。なんというか、手にとりやすく、読みやすいので。

そんな感じで態勢を整えてから読みはじめたのが、萩尾望都の『一度きりの大泉の話』。
これは読みたかった。実は予約して発売日に入手してたのに一ヶ月ちかく積んでいたという、私にはよくあるパターン。それでも一ヶ月で済んだのだから優遇された方ではある。それこれも萩尾望都なら読むでしょっていう嗜好ゆえのこと(と言いつつ気づいたけど「ポーの一族」最新刊、積んでるわ。せっかくなので第一話から読み直していこうかな。『一度きりの~』を読んだ後だし)。
つまり私は萩尾望都が好きなのである。ファンと言っても差し支えはないと思う。
しかしながらSF作品はあまり読んでいない。「ポーの一族」「トーマの心臓」あたりの既に古典と呼べそうな作品や、「残酷な神が支配する」「イグアナの娘」のような萩尾さんが心理学を勉強してから描かれた作品が好き。あとバレエものも好き。それ以外の短編も大抵は好き。原作つきの「アウェイ」も好き(ついでに小松左京も好きなのでこのマンガ化は嬉しかった)。
エッセイは他にも一冊ぐらい読んでいる。なので、今回も迷わず購入しておいた。もちろん、どんな内容かは確認してから予約ボタンを押した。

実はというか私は竹宮惠子作品はほぼ読んでいない。たぶん「風と木の詩」しか読んでいないと思う。
今回『一度きりの~』を読んで、そういえば「地球へ…」とか「ファラオの墓」も面白そうと思っていたのに読んでこなかったことに気づいた。なんでだろうと考えたら、恐らく竹宮惠子といったら「風木」でしょぐらいの代表作になっているその「風木」が苦手だったからだろう。
食わず嫌いと言われればそうだし、でも「風木」は読んでいるから、うーん……とはいえ、『一度きりの~』を読んだからますます竹宮惠子さんを読みたくなくなったということはなく、かえって読みたくなったというのもなく、うーん……良くも悪くも「風木」はインパクトあったなと実感している次第です。

『一度きりの大泉の話』は、まさにその「風木」をめぐって起こった当時のあれこれを萩尾望都の視点で語っている。
あらすじや大体の内容はちょっと調べれば出てくると思うので、ここでは割愛する。

で、たまたま『一度きりの~』を読む直前に金曜ロードショーで「スタンド・バイ・ミー」を観たばかりで、「これ主人公四人が女の子だったらどうなるかなあ」と想像しながら読んでいたらタイミングよく「少年」がフォーカスされていた(「少年愛」がメインだけど最後まで読むと「自由」の象徴)おかげで、なんだかちょっと面白い読書体験になりました。

というわけで、以下、感想。
当然のようにネタバレします。


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実はこれを書く前にいくつかレビューを拝読した。
あとアマゾンレビューもざっと目を通した。
書く前に、と書いたけど、むしろそれらを読まなかったら私はこれを書こうと思わなかったかもしれない。
いくつかのレビューでは、萩尾望都に批判的な向きもあった。ああいう内容なら当然、起こることである。ただ、その矛先がちょっと思いがけなかった。
たとえば「封印していたわりに細かいことまでずいぶん細かく憶えている」「もともと萩尾望都は母親のことを未だに許せていない人だし、あちこちで幼少期の不満を蒸し返しているし、年齢に見合わないくらい精神が幼い、狭量な人だから、そりゃ竹宮惠子を許せるわけないだろう」といった見方。だいたいこんな感じのレビューや感想に、複数、行き当たった。
前者の「良く憶えてるね?」っていうのは「細かすぎてウソっぽい」「実は何度も記憶を反芻しているうちに作り上げた妄想なのでは?」要するに「被害妄想なのでは?」ということだろう。『一度きりの~』を読んだ限りでは萩尾望都はこれを受けて「なんで『被害妄想でしょ』って言わないの?」と返しそう。そしてまた別のレビューでの「発達障害とか持ってるのでは」という一文に図らずもおいしいエサを投下してしまいそう。
後者に対する萩尾望都の反応は想像がつかない。別にこの本を書く前から「未だに親を許せないのはおかしい」ぐらいさんざん言われてるらしいので、対処できるのではと推測するし、そうであれば良いと思う。「竹宮惠子を許せないのはおかしい」に対しては本の中で「いっさい関わらない」と断言しているから許すも許さないもないだろう。萩尾望都は竹宮惠子を好きでも嫌いでもないし許す許さないの対象じゃないしただ単純に関わらないことにしているだけ。と、文中にはっきり書いてあるので、今のところはそれが萩尾さんのスタンス。ファンがどうこう言っても変えられるものではない。作家と読者という関係だからじゃない。人間は他人を変えることはできない。それだけ。

で、これはかなりおこがましいことなのだけれど、上記の批判的な発言を読んで思ったのは、「萩尾望都と私には共通点があるかもしれない」。
本当、こんなことを書くのはとんでもないのだけれど、さすがの私でも恥ずかしいレベルなんだけれども、しょうがない。
『一度きりの~』を読んでいる間、萩尾望都といえど結局は片側の解釈なので一読者としては中立の視点を意識していた。ましてや私は竹宮惠子の作品をほぼ読んでいない、萩尾ファンだし。偏った見方をしてもあまり楽しくないし。
ただし、上記の批判についてはたとえ偏りまくっていても反論というか、弁護というか、説明はできる気がする。
だって私も言われるんだもん。「よくそんな細かいとこまで憶えてるね?」「被害妄想」とか「その年になって親を許せないのはおかしい」とか「発達障害」とか。発達障害については一応の検査結果が出ているものの、もう良く分からなくなっちゃったよね。この一年ぐらい、いろいろありすぎて。発達障害の認知が広まったのは良いことだったはずなのにこうも安易な攻撃の道具になるとは、悲しいことだね。

さて、改めてなるべく冷静に書いていきます。

「細部まで記憶しすぎている」。
これについては『一度きりの~』の中でも語られている通り、皮肉なことに(?)当の竹宮惠子が恐れている萩尾望都の才能のひとつ。萩尾本人は知らなかったらしく、共通の知人の証言。
「萩尾望都は目にしたものを何でもすぐに憶えて作品に落とし込んでしまうので、自分(竹宮惠子)のお気に入りのもの(コップとか小物とか)も萩尾望都に見られたらすぐマンガの中のアイテムになっていそうで怖い」みたいなことを言っていたらしい。竹宮惠子がそれを「怖い」と表現した意図は、まあ、普通にちょっと嫌だなという感覚と、「お気に入りのもの」はやっぱり大事にしているものなので大事に扱っていたいし他人にもそうしてほしいという感情と、それが最終的には「さりげなく誘った映画や薦めた本もすべて作品の燃料にしてしまう才能がそばにいるとものすごく脅威に感じる」ということだと推察(だから竹宮惠子自身はあまり萩尾望都に何かをオススメしていない。それは萩尾望都のほうでも「そういえば竹宮先生からのオススメはあまりなかった気がする」と文中で語っている。竹宮惠子からの手紙に「書棚を見ないでほしい」とあったのは、きっと「自分の書棚にある本は自分の資料でもあるので、あなたの創作の源泉にしないでほしい」ということだろう)。増山さんという、竹宮惠子と「風木」のブレーンみたいになる人は別に秘密主義でもなかったのか、萩尾望都のそういう才能を理解していなかったのか、屈託なく両者に本や映画をオススメをしていたらしいから、同じ条件下で近い影響を受けたのに作品になるのは萩尾望都の方が早く、しかも完成度も高いとあっては、そりゃ作家として怖いと感じるのも納得できる。だから木原敏江さんが言ってるように創作者が二人で暮らしちゃダメなのよって話なんだけど、後の祭り。
「細部に行き渡る記憶力」って諸刃の剣なんだなと思う。これはもう自分の感覚なので、他の人もそういうもんだと思ってたら違うっていうからそれまではなかなか気づけないし、しかもその記憶力で逆に疑われるとか想像もつかなかった。萩尾望都みたいにそれを作品に昇華できる人ですらそのことをつっこまれるなんて、更に考えてもいなかった。今日の今日まで。
私の経験上からもうちょっと考えていくと、たとえば、その記憶力が萩尾望都の対人関係をちょっと困難にした可能性は否めない。普通におしゃべりしていて、「あれ?でもあなた前はこう言ってなかったっけ?」とか口を挟むことが多々あったなら。これ別に責めてるとか、そういうのではなくて、ただの会話のつもりなので、「え、そこ重要?」って聞き返されて「じゃあ自分の記憶ちがいか、あちらの考え方が変わったんだなあ」と納得できる。でも指摘された側は「いちいちうるさい」ってなるのも、今となってはよくわかる。中には本当に「もう忘れてほしいこと(まさしく竹宮惠子が分かりやすく言った通り)」だったり「まさか憶えてるとは思わなかったこと」だったりな、核心に触れることからわりとどうでも良いことまで様々なんだけど、ただ単純に記憶されていることそのものが何か嫌っていうこともあるから、会話するときは過去の記憶と齟齬があってもそういうもんだと思って聞き流して今現在その人が話していることに集中した方が無難。
でもそれも「自分の記憶力は通常よりねちっこい」という自覚がなければできない対処でもある。当時の萩尾望都は二十代そこそこ。上京してきたばかりで人間関係も構築中だけどそれより大事なのは食いぶち。っていう環境でそんなことに気づく余裕はなさそう。でも周囲は気づく。勘や、違和感で。特に同居していた同業者の竹宮惠子、聡明で洞察力に優れ観察眼も確かな作り手はすぐに見破ったことだろう。萩尾望都のそういう癖みたいなものが創作には極めて強い武器になり得ることも。言い方は悪いが創作者でもよほどでなければ「なんかちょっと話しづらいとこあるかな」ぐらいで済ませられた。でも竹宮惠子はそれが脅威になると察知した。それで、もう簡単に言っちゃうと、疲れた。映画も本も会話も何でも創作のエネルギーにしてしまう才能がそばにいることに疲れたし、普通に話すことすら疲れたのだろうと思う。大泉の後半、竹宮惠子がほとんど増山家に入り浸っていたのは、やはり萩尾望都との会話を避けたからだろう。だって「これ言ったらマンガに使われるかも、じゃあこれは言わないであれを言おうか、どうしようか、大丈夫かな」とかいちいち考えるって、普通に疲れるでしょ。ずばりとそのへんを口にしても、二十代の萩尾望都はひどく傷つきやすかったらしいから(現マネージャー談。『一度きり~』のインタビューで語っている)とにかく面倒くさい。同居解消しか手だてがなかったのも、よく理解できる。
だから「細部まで記憶しすぎ=妄想」は、むしろ竹宮惠子が誰よりも強く否定できそうな話。かもしれない。あくまで私の経験と重ねて書いているので、確かなことは何もない。ただ、私の経験を差し引いても、「ぱっと記憶してぱっとマンガ(絵)にするところが怖い」と竹宮惠子が言っていたことはしっかり書かれているから、あながち間違っていない気もする。実際はぱっとやっているように見えて、何十枚ものクロッキーブックや植生や気候の調査など綿密な下積みの上に成立させているんだけど、まあ、テーブルにあったマグカップをささっと描くとか、そういうことは良くあったのだろう。本格的に作品にするときは、そのカップのデザインがキャラクターの嗜好に合っているかとか、画面上でどこに配置させるかとか、角度とか、相当に細かいところまで考えて描写しそうだけど、そういう作業も圧倒的なスピードだったか、見えづらかったか、どちらかだろう。何しろ萩尾望都本人が「地味な下調べが楽しかった」って言ってるので、はたからは苦労が苦労に見えなかったのは、まあ才人あるあるだと思う。『一度きりの~』を読んだ限りでは竹宮惠子も同じような努力と工夫をこらしているはずで、でもそれは萩尾望都の視点では書かれていない。近くにいすぎて互いが見えていなかったのも、あるあるだろう。

「ねちっこい記憶力」が発達障害と関係あるのかは、私にはわからない。そもそも萩尾望都を発達障害とする確たる根拠はない。さすがに言い過ぎだろうと思う。仮に発達障害でもあれだけの仕事をしているのだからまったく問題ない。本人が困っているなら萩尾望都ならとっくに解決策を練っていそうだし、作品に活かしていそう。
でもだから何だっていう話です。ビル・ゲイツやエジソンのあれこれは逸話として受容するのに国内の少女マンガ家になると容赦ねえなっていうのが私の端的なぼやきです。

「七十代になっても親を許せないのはおかしい。だから竹宮惠子をも許せないんだろう」との見解。
竹宮惠子のくだりはともかく、「親を許せないのはおかしい」「いつまで親を責めているのか」というのは、私もずっと言われてきた。萩尾望都もずっと言われてきたご様子。萩尾望都は既述の記憶力にしてもそうだが、あらゆるものが創作のエネルギーになっていることを考えると、最初のトリガーが親子関係だったのでは、なんてこともう百万回ぐらいあっちこっちで語られていそう。これ、表だって言っているかいないかだけの差で、山岸凉子だって作品に自身の親子関係をかなり反映させている。創作している人間なら多かれ少なかれ、意識的にせよ無意識の内にせよ、やっていることだろう。
すると、「表立って言っていること」で萩尾望都は損をしていることになるのか。確かに萩尾望都はエッセイやインタビューでよく親のことを語っている。それを読んで「その年齢で親を許せないのはおかしい」と断じる人は親子関係で悩んだことがないのかなあと疑問に思う。あと年齢は関係あるのか、とも。これが加速すると「産んでない、育ててないからわからない」になるので(そこまでではないが「萩尾望都は結婚してないから色々わからないのでは」といった主旨のレビューは存在する)私としては途方に暮れます。そもそも許す許さないみたいになる関係は望んでいなかったので。許せるものなら許したい時期を経てやっぱり許せないわってなってるから、もうがんばったし、そっちこそ私を許してほしい、でなければ離れてほしい。ぐらいの気持ちで私はいます。
「その年で親を許せないのはおかしい」に対して萩尾望都がどう応じているのかは知らない。が、今なお言い続けていることがすべてではないだろうか。
「冷静に反論できるのは作品の中だけです」と『一度きりの~』に書いてあったけれど、これはとても印象的だった。「トーマの心臓」でオスカーがユリスモールを「最初は冷静な優等生だと思ってたけどつきあっていく内にははあこいつは結構な激情家だと分かった」と時間をかけて理解を深めていくくだり(セリフはうろ憶え)を思い出す。記憶力のことにせよ、性格や傾向にせよ、自分を知るのには時間や経験が必要。萩尾望都は恐らくかなり言葉を選んで対応しているし、その言葉もシナリオのように念入りに構成したものを数本、常に手もとの用意している可能性がある。少なくとも私の目にふれる範囲(メディアとか)ではそのシナリオにあることしか口にしないだろうし、そして事実、それが萩尾望都の答えなのだと思う。あとは作品を見てくださいということでもある。そこが萩尾望都が冷静に反論できる場だと、はっきり書いてあるのだから、そして作品は当然ながら反論だけでなく萩尾望都の主張や表現の塊でもあるのだから、それ以上はどう探っても単なる邪推にしかならない。この私の文章ですらも(私は読み手の自由に則って読んだし書いている。他の人も同様でしょう)。

『一度きりの大泉の話』を読んで思ったことはほかにもたくさんあるけれど、萩尾望都が言いたいことはシンプルに「作品を書くことに集中したいのでその為の時間を確保したい」、これだけなんだよね。二十代のころはまだまだ先があると思っていたから人間関係でショックを受けた挙げ句マンガを捨てようか迷う余裕もあったのだろう。でも現実、事故で死にかけたり、確実に老いたりして、時間とのつきあい方も変化した。萩尾望都の中では大泉での出来事は封印していたし、外の世界でも風化していくものだと流れに任せていたところに美化された噂が来たから時間を使ってこの本を書いた。
この本の執筆はカウンセリング的な効果もあったみたいなので、悪いことばかりではなかったなら良かったのかもなと思う。
ちゃんと怒っていることも何となくわかったしね。
自分に非があったとだけ認めているより、怒っているほうが良いと思うので。たぶん竹宮惠子に対してでなく、周囲の何を知ってか知らないのか和解を提案したり対談の話を持ってきたり、そういうのを断ってもしつこく食い下がる人たちに対して、怒ってるし、疲れてる。竹宮惠子がかつて萩尾望都に疲れたように。たぶん。竹宮惠子側のエッセイを注文したのでそれを読むまで「たぶん」に保留。

内容は賛否両論あるに決まってるけど、未公開のネームなど複数が収録されているから萩尾望都が好きな人なら手にとる価値はあると思う。



ここまで読んだ人はほぼいないだろうけど、「スタンド・バイ・ミー」が女の子の話だったらっていう想像。
この本を読む直前は「女の子だったら話しているだけで冒険を終えられそう」とぼんやり思ってたんだけど、読み進めるにつれてちょっとずつ変わり、今は、
「四人であれこれおしゃべりしている間に無事に死体の発見に成功してそれぞれ家に帰るんだけど、そのうちの一人だけは実行したくなって帰宅せず、残った三人は親から問いつめられるものの互いに目配せしあってうまくごまかし無関係を決めこみ、実際に死体を見てようやく帰ってきた女の子は三人からは当然のように避けられて新しい人間関係に踏み出す」
こんな感じで。
萩尾望都は少女より少年が自由だと思って少年が主人公の作品を書いたらしい。当時は自由な少女って異端だったし、まず自由になるために一つふたつエピソードが必要だったんだろうけど、「ポーの一族」から数年後に生まれた私の想像や感覚では女の子もけっこう強い。早熟な子は面倒を避けてうまくやる一方、未熟な子ほど危険を度外視して飛び出せる力がある。
器用に立ち回るのも孤立を覚悟でやりたいことをやるのも、相応の失うものと得るものがあるんだなと『一度きりの大泉の話』を読みながら再確認した気がする。どちらでも自由に選べる時代と年代であることを、素晴らしいと単純に思う。






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