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SNS時代の表現

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SNS時代の表現について書いた自分の文章を集めたマガジンです。
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#写真

すべてを肯定するために(あるいは『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』が目指す場所)

カミュの本「シーシュポスの神話」は、多分10代から20代の僕にとって最も大きな影響を与えた本だったと思う。尖りまくってすべてを否定し、薙ぎ倒そうと思っていた10代の僕は、カミュがこの神話の最後に書いた「すべてよし(tout est bien)」という一言、そしてそれを体現した「いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。」という一文に出会って、世界への見方がガラッと変わった。 神の罰によって、永遠に岩を山の上に運び続ける(しかも頂上に着いた途端に岩は地上に転がり落ちる

新著『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』 発売!

明日3月19日、この一年ほどかけてじっくりと進めてきた久しぶりの単著『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』が発売になります。今日はその内容のご紹介をしたいなと。ちょっと長くなるかも。できるだけ短くしたいのだけど。 実はすでに早い地域ではポストに届き始めているようで、おそらく全国の本屋さんでもそろそろ並び始める頃だろうなと思っています。著者としては、いよいよという気持ちではおりますが、一方において、一番大変な「書く作業」が終わっているので、なんというかとても晴れやかで気楽な

壁は常にそこにある(写真展を終えて、あるいはAIと写真と、村上春樹と)

というわけで、4月25日から30日まで、渋谷ルデコにて開催されたGoogle Pixel展、および写真展「壁」が終幕いたしました。まずは、ご来場いただいた多くの皆様に、主催者として心から感謝を申し上げます。 https://twitter.com/TakahiroBessho/status/1641379751116914690 また、僕の思いつきに対して、二つ返事どころか、プライベートの時間を使ってまで協力してくださったGoogleや博報堂のみなさんにも、深く感謝を申し

大雨の日に僕らの日常について考える

日経を見ていたら、こんな記事が出ていました。 京都市立芸術大学は僕の友人も何人か通っていて、一度遊びに行ったことがあります。ちょうど僕が大学院に通っていた頃の話だから、もう20年近く前の話。その頃僕は桂に住んでいて、沓掛キャンパスも近かったんですね。そうか、あのキャンパスが京都駅の東側に移るんだ、そのこと自体知らなかった。 で、そのキャンパス移転が行われるに際して、元の沓掛キャンパスを「写真アーカイブの展示場」として残すプロジェクトが進んでいるそうです!すご、さすが芸術大

SNSの罪と罰、あるいはアートの根源は共感ではなく違和感であることを思い出す

タイトルは大きく書いちゃったけど、そんな大それたこと書くつもりないですよ。とはいえ、最近よく思ってることを書きますね。今日は短めに。 皆さんもご存知の通り、SNSでは日々写真がバズってます。それがもう日常ですよね。でもよく色んなインタビューで話すんですが、5年前は違いました。まだプロのほとんどがSNSで写真をやることを真面目に捉えてなかった時代がありました。その是非はおいといて、そういう時代から5年を経て、今やSNSを使ってない人を探すのが難しいくらいかもしれません。 さ

SNS時代における「ような系写真」の流行と、その社会的考察

例えば「アニメのような写真」という表現をSNSでご覧になった方は多いのでしょうはないでしょうか。あるいは「映画のような」「CGのような」「絵のような」「ゲームのような」写真、という表現。SNSではもしかしたらほぼ毎日のようにどこかで見かけるかもしれません。この記事ではそれらの写真を「ような系写真」として定義し、そのようなタイプの写真がなぜ今流行しているのか、その社会的な構造を素描するのが目的です。 記事の最初に、結論を書いておきます。2022年6月現在において、毎日どこかで

「写真を大ごとにしたくない」と友人は言った

この前、友人の黒田明臣くん @crypingraphy と、それぞれのサロンメンバー向けの対談イベントをやった。ここからは普段通り、彼のことはあきりんと呼ぶことにする。 で、そのあきりんは、写真業界では知らない人なんてほとんどいないだろう人物で、写真系のクリエイティブ集団XICOを率いる代表でもあるし、一人の写真家としても、おそらく日本最高峰の技術を持つ人物写真家でもある。 そのあきりんとは、どう言うわけか仲良くさせて頂いている。撮る写真も趣味も生き方も専門もほとんど接点

Google Pixel 6で見えてきた、カメラと写真の未来(コミュニケーターとしての写真)

今日の記事はPixel 6という、Googleが10月末に発売した新しいスマートフォンにまつわる話です。ただ、発売して半月が経った今、たくさんのレビューがすでに世に出ており、いまさら屋上屋を架す意味はほとんどありません。ですので、今日の記事では、Pixel 6を半月間、ほぼ肌身離さず使う中で徐々に形作られきたある予測についてお話ししたいなと思います。その予測とは、Pixel 6を通して見えてくるカメラと写真の未来です。具体的には「写真は今後コミュニケーターとなっていくだろう」

現在の写真表現がパラダイムの転換期に近づいている可能性

なんとなくなんですが、ここ数年、写真仲間と話していると、たまに出る話題があります。「最近、前ほど熱心に撮らなく無くなってきた?」とか「前ほどワクワクしない」みたいな話です。もちろん常にそんな話になるわけでもないのですが(毎回そんな話だとつらいですよね)、ふとした合間にそんな話題になる時があります。 漠然としたこの感覚について、今日お風呂でぼんやり考えていたときに、ふと思ったんですね。これはもしかしたら、SNSを中心とした現在のデジタル写真の表現は「踊り場」に入りつつあるんで

祈りや願いとしての風景写真(あるいは「パーソナルランドスケープ」と言うテーマ)

2年ほど前から「パーソナルランドスケープ」というテーマで写真を撮りためています。英語にしているのは、その感覚を伝える適切な単語が日本語で思い浮かばなかったからで、日本語に無理矢理するならば「人間の存在を感じる風景」とでも言えばいいでしょうか。痕跡といってもいいかもしれませんし、「そこに人がいて欲しい風景」とも言えますし、「いつか人がいたかもしれない風景」という感触も包含します。この感触を説明できないので、英語に逃げているわけです。 こんなことを考え続けているのは、同い年で最

SNSでバズる写真の分析

まず最初に、今回は僕のSNSの利用スタンスを明示しておきたく思っております。それは「フリーランスのクリエイターとして、現状ではSNSは使わないではいられないし、実際に恩恵も多いけど、SNS特有の数多くの問題点には意識的であるべき」というものです。 今日はそのようなスタンスであることを改めて表明してから始めるべき話題だと思っています。というのも、今回の話は表題の通り、「SNSでバズる写真の分析」という、いかにも誤解を受けそうな内容だからです。上記スタンスであることを前提として

表現のコモディティ化と感受性の無気力化

今日の記事は前回の文章の続きの話になります。前回の文章が「SNSにおいては表現がことごとくコモディティ化してしまう」という話でした。そして記事の冒頭にあとから付記した大事なことなんですが、あの文章は「システム論」なんですね。言い方を変えると、「個人の力では逃れることができない巨大な動き」の話でした。そして今回はそのシステムに巻き込まれた我々人間に何が起こるのかということです。前回が「作り手」側の視点での話だったとすると、今回は「受け手」側の視点からの分析です。 再び最初に要

SNS時代における「表現のコモディティ化」

今回の文章は、この2年ほど色々書いてきた「SNS時代の表現」というテーマの、現状におけるまとめみたいな話になります。最初に要旨を書くと、たった一文でまとめられます。それはこういうことです。 SNSにおける情報伝達の超高速化によって引き起こされる「表現のコモディティ化」に、我々はどうやって抗うのか。 この場合のコモディティ化とは、「ある表現が瞬く間に代替可能品で溢れかえるようになること」を指します。つまりSNS時代、特に今後5Gが整備され、情報伝達がさらに加速化し、空間の距

2020年代に表現するということ(あるいはマイケル・スタイプの電話帳)

1. マイケル・スタイプの電話帳昨日こんなツイートをふと書きつけました。 伝説として知っているだけで、本当にマイケル・スタイプが言ったのかどうかわかりません。インタビューだったか対談だったか、そんな中で言った言葉らしいのですが、googleで調べてみても出典を見つけることはできませんでした。まあでも、マイケル・スタイプなら確かに電話帳読んだだけでも人を泣かせることができるかもしれないと思わせる声をしているのは確かです。 今聞いても全然古く聞こえない。これもう30年近い前の