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現在の写真表現がパラダイムの転換期に近づいている可能性

なんとなくなんですが、ここ数年、写真仲間と話していると、たまに出る話題があります。「最近、前ほど熱心に撮らなく無くなってきた?」とか「前ほどワクワクしない」みたいな話です。もちろん常にそんな話になるわけでもないのですが(毎回そんな話だとつらいですよね)、ふとした合間にそんな話題になる時があります。

漠然としたこの感覚について、今日お風呂でぼんやり考えていたときに、ふと思ったんですね。これはもしかしたら、SNSを中心とした現在のデジタル写真の表現は「踊り場」に入りつつあるんではないか、という。そしてそのように考えたときに、色々な考えが芋づる式に浮かんできたので、今日はその話をします。

結論をまず書きますね。それはこういうものです。

SNSを中心に展開されてきた写真表現は、おそらくパラダイムの終末に近づきつつある。

この場合の「パラダイム」とは、2010年前後にはじまった、本格的な写真のデジタル化を指します。

写真のデジタル化が進み、カメラのメインがミラーレスへと移行しつつあるという状況を迎えた今、この「10年代デジタルパラダイム」は、おそらく臨界点に近づきつつあるんです。そしてこうしたパラダイムの転換期においては、必ず「踊り場」がやってきます。つまり停滞期ですね。時々ふと「前ほどワクワクしなくなったなあ」という感慨は、この「踊り場にいる感覚」だったのではないかと思うのです。

2021年現在において、写真に携わる人間が迎えているのは、そういう状況ではないかなと。そしておそらく、この状況は、例えば動画だったり音楽だったり、あるいはテクストのような古典的なメディアにおいても、似たような「踊り場」を迎えつつあるのではないかというのが、拡張的な視点です。

以下はこの結論についての個別論になります。よかったら読んでみてください。

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1. キャパ「崩れ落ちる兵士」が問う写真の「真実性」

さて、少し話は脱線しますが、みなさんはロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」という写真をご存知でしょうか。こんな写真です。

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写真史に残る一枚で、この一枚が、歴史上最初に、銃弾に打たれて崩れ落ちる間際の兵士を捉えた写真とされています。そしてその圧倒的な迫真性と真実性を持って、当時無名に近かった22歳のロバート・キャパの名前は、一躍歴史の表舞台に躍り出ることになり、その後写真集団マグナムの結成や、あるいは今も続く報道写真の栄誉である「ロバート・キャパ賞」が創設されました。

さて、この一枚の写真には、実は分厚いWikiが立っています。このWikiから一文を引用してみますね。

「当時の戦場写真は4×5インチのフィルムを用いて遠くから撮られた動きの乏しい写真が普通だったが、キャパは機動性と速写性を確保するため35ミリフィルムでの撮影が可能なライカを用いて戦場の中で撮影した」また「兵士が頭を撃たれて倒れる瞬間を兵士の前方至近距離から撮影した極めて珍しい写真」また「キャパ自身が撮影した」と長らく信じられてきた。(下記URLより引用)

実に不穏な書き振りですね。そう、実はこの「崩れ落ちる兵士」は、長らく信じられていたような「兵士が撃たれた瞬間の写真」ではなく、また「キャパ自身が撮影した」写真でもありません。Wikiを読めば書いてあるんですが、当時の恋人であるゲルダ・タローが撮影した写真であり、ライカではなくゲルダが持っていたローライフレックスで撮影され、そして写っている兵士は、訓練中の兵士で、撃たれて死ぬ間際ではないことがわかっています。報道写真の力強さを世界に知らしめ、その後キャパの名前をライカとともに神格化した一枚には、表明されていた「真実」と呼べるものは何一つなかったというのが、のちに大きなスキャンダルとして暴露された、そういう一枚なんです。

さて、僕にはこの写真が「だから価値がない」とかいうつもりは全くありません。そこは誤解しないでください。そうではなく、この写真にまつわるストーリーは、写真というメディアの有している「多層性」を極めてよく表していると感じるんです。

一般的に、一枚の写真は、たった一人の人間が写し撮った、疑いようのない事実が刻印されていると考えられています。そこには正真正銘の「真実」だけが刻印されていると考えられがちですが、実際には一枚の写真が生成される過程においては、撮影者本人だけではない、数多くの人間の労働や社会的事情といった、作品の性質を決定する多様なレイヤー(層)が積み重なっているということです。ここでレイヤーという単語を使ったのは、もちろん意図的なものです。あたかも今現在僕らが、Photoshopで作品作りをするときに、一枚の写真に何十枚ものレイヤーが被さることがあるように、一枚の写真が、一つだけの真実、一つだけの事実、一人だけの人間、一瞬だけの時間性が刻印されていることなど、あり得ないということ。そのことをこの「崩れ落ちる兵士」という写真が象徴していると思うんです。写真を前にした時、僕らはあたかも小説のテクストを読むように、表層にあらわれている「絵」の下にある「多層のレイヤー」を読む必要があるんですね。

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2.ブレッソンの「サンラザール駅裏」と「決定的瞬間」

このような写真の持つ「多層性」は、もう一枚の、写真史に残る傑作をみてみても明らかでしょう。皆さんもご存知の「決定的瞬間」という単語の元になった、アンリカルティエブレッソンの「サンラザール駅裏」という一枚ですが

1932 Behind the Gare Saint-Lazare, Paris

(出典:https://www.flickr.com/photos/136879256@N02/22780429087/ PublicDomain)

この一枚も、長らくブレッソンの他の写真と同様に、ノートリミングで撮られた傑作と考えられてきました。しかし2007年、このブレッソンの代名詞とも言える一枚は、実は左側と下側がトリミングされた写真であることが公開されています。また、トリミングに際して、コントラストの調整で被写体を強調し、水面部分の影が焼き込みで明るくなっています。ブレッソンは生涯たった2枚だけトリミングの指示をしたということですが、そのたった2枚のうちの1枚が、「幾何学の魔術師」と呼ばれるほど、完璧な構図をノートリミングで描き出すブレッソンの代名詞となっているのは、運命の皮肉なところです。(この辺りの詳しい事情は、今橋映子さんの『フォト・リテラシー』に詳細がありますのでぜひ。)

さて、キャパにせよブレッソンにせよ、再度言いますが、その伝説的な逸話を裏切るストーリーがその写真の裏側にあったことを批判したりあげつらったりしたいわけではありません。そうではなく、これら2枚のストーリーが語るのは、「事実性」が極めて強く、「真実を写す」と書く写真というメディアが、実は極めて「多層的」であるということです。キャパの一枚には、ゲルダ・タローの人生や、当時の反ファシズムの気風が、この一枚を「伝説に仕立て上げる」ために隠蔽されたり誇張されたりする形で反映していますし、ブレッソンの「サンラザール駅裏」もまた、ブレッソン自身の撮影の後には、おそらくレタッチャーの仕事だったり、出来上がったプリントを広めた媒体だったり、あるいはもっともっと小さなところでは、おそらくはブレッソンの撮ったフィルムを運んだお弟子さんのような人もいたのかもしれない。そうした周辺で関わった人の「見えない作業」や、時代の空気のようなものが、これら写真史に残る2枚の中に「地層」として埋め込まれている。

写真とは、つまり、2010年代に至るまでは、本当に労働量の多いアートだったわけです。一枚の写真が生成される裏には、多くの人間の意思や思惑、社会の雰囲気や世相、文化的背景や経済的事業などが複雑に絡み合う。それがまるで「テクスト(織物)」のように、写真という「事実」を編み上げていく。いわば写真とは、「光で編まれたテクスト」なんです。

こうした本質的に多層的な存在であった写真というメディアが、一気にその本質を露わにしたのが、実は2010年代でした。そう、2010年代に写真を取り巻くパラダイムが激変したんです。もちろんそれは、デジタル化です。

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4.デジタル化がもたらした変容の核心

あらゆる芸術表現というのは、実は表現技法の革新と同じくらい、表現を維持するメディアの物理的な変更によって激変してきました。歴史を見てみても、西洋画の進化には、常に「画材」の革命がその裏には潜んでいます。より明確な色や、より複雑な色を作り出す技法が生まれたり、あるいはそれら絵の具を作り出すための材料が発見され、流通経路が確立したりして、一般人にまで絵の具が手に入りやすくなったりする。そういう物理的な部分での革新こそが、絵のパラダイムを激変させてきたわけです。写真でも同じで、その最も新しい変革が、写真のデジタル化の普及でした。

この変化の中にあって、上で書いたような一枚の写真の中に潜んでいた多層性が、実は一人の人間の作業によって完結し得るようになったのです。例えば撮影、例えば現像、例えば印刷、例えば展示、例えば文章化、例えば広告宣伝、例えばメディアミックス。こうした、2010年までだったら、一人だけでは決して不可能だったいくつもの過程を、写真家一人で維持して展開することができるようになった。それがデジタルを通じて可能になったのです。これが、2010年前後に起きた「写真におけるパラダイムシフト」の本質だと言えるでしょう。

その結果、2010年代に進んだのは、圧倒的なスピードで展開する「写真の持つ多層性の掘り起こし」でした。これまでは別々の職能のように分離していた写真一枚の中の多層的な各要素は、望めば一人で展開できるようになりました。そうなると、これまでは、ある表現が革新されたり、更新されたりするときに必要だった膨大な作業量や時間は、圧倒的に短縮されます。10年かかるような変化が、たった一人の人間の作業に圧縮されることで、たった一週間で完成する。そうして、次々と「デジタルだから出来うること」が、隅々まで掘り起こされていったのです。おそらくは時間さえかければフィルムであっても出来たことの大半が、デジタル化されることで爆発的な推進力を得た。こうして2010年前後から現在までの間、日進月歩の「表現の拡張」が試みられてきたように思うのです。

ですが、冒頭に書いたように、その速度が落ちているように感じます。その一つの原因は、新しい表現が試みられても、一瞬で消費される状況が来てしまったことにも起因します。これについては以前、「SNS時代における「表現のコモディティ化」」という形で書きました。

こうした状況とパラレルにあるのは、「デジタル化というパラダイム」自体が、終末期に来ているからではないかという予感です。

ある「パラダイム」は、そのパラダイム内の可能性が探究され尽くしたときには、徐々にパラダイム自体の持っている可能性や推進力を失って、停滞し始める傾向があります。例えば最も巨大な「パラダイム」は、文明や国家の勃興と衰退ですが、どのように栄華を誇った文明も、ローマ帝国のような圧倒的な完成度を誇った国家も滅んだように、永続する「パラダイム」というのは、歴史上一つもあり得ません。その末期には必ず停滞期を迎えます。そして十分に停滞したときに、いきなりある時、パラダイムが激変することを、人々は知ることになる。それが、おそらく、近い将来にやってくるんじゃないか、そんなふうに思い始めました。

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5.クリエイティブが直面する次のパラダイム

では、その近い将来の「次のパラダイムは何か」というと、それはもう、皆さんも予期されているんではないでしょうか。AIや機械学習ですね。数日前、こんなニュースが出ました。

一瞬頭に「???」が浮かぶような技術ですね。この動画を見てもらえると、何をしているかわかります。

複数の写真の間に存在しうるフレームをGoogle Photoが生成して、その写真からアニメーションを生成するという技術です。おそらくGoogleのAIやディープラーニング技術の賜物でしょう。

これまでも似たような技術はあったとは思うのですが、これがGoogle Photoという、極めて我々に馴染みのあるサービスで簡単に出来てしまうことに、Googleの狂気じみた技術への拘泥を感じますが、2020年代中盤頃からは、この方向性の技術が、「次のパラダイム」を作っていくだろうと予想されます

つまり、

1. 2010年までは、多人数が関わる人的、社会的、経済的リソースが、一枚の写真に詰め込まれた。
2. 2020年までに、それらのリソースを一人の人間が代替し得る環境が、デジタル化を通じて整えられた。
3. 2020年代は、人間にはほぼ不可能な計算や作業量をAIが代替することで、表現の拡張がなされる未来が来る。

こんなふうに想定しています。

2010年代は、これまでだったら100年で起こるはずの進化を、デジタル(とSNS)を通じてたった10年で突き詰めてきた期間だとすると、2020年の中盤頃からは、これまで10年かかって起こったことをAIを経由した表現で、1年で更新していくような、そんな時代がやってくるんじゃないか。そして今、それが起こる直前の「踊り場」に僕らはいる、そんなことを考えています。

そうなるといよいよ僕ら人間は、芸術からも弾き出されるのかというと、実は僕はそう思ってません。人類がAIに飲まれるだけの10年にはなりえないだろうと。少なくともクリエティブの分野はそうならないはずです。近未来において本当にAIが使い物になる瞬間が来たとき、そのパラダイムの可能性を探究する芸術家たちは、AIの可能性を取り入れることができる人々だろうと考えています。

もちろん、その時のAIと表現の関係は、今あるどれとも違う顔をしているはずです。例えば架空の風景や人物を合成して作り出すような、「頑張れば人間がやれることの延長線上の発想」とは違った方向性に行くんでは無いかと。

次のパラダイムでは、発想のフレームワークや認識を拡張するような方向へと、AIが使われていくだろうなと。そのために必要なのは、二次元を三次元へと変換する技術だったり、三次元に変換された静止画を投影するためのVR空間との接続だったり、そのVR空間を歩くための身体デバイスの拡張だったり。いわば「機械環境」や「機械身体」への橋渡しのような時代が来る時の、その過渡期の価値観を表現するためのエンジンとして、芸術とAIが関わることになるだろう、そのように思っています。

願わくは、それが本当に来たタイミングで僕自身もちゃんと「遊べる側」になりたいと思ってるんですが、さて、どうなるやら。意外とこの「踊り場」が長い可能性もあるなと、ぼんやり思ってます。

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別所隆弘
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