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SNS時代における「ような系写真」の流行と、その社会的考察

例えば「アニメのような写真」という表現をSNSでご覧になった方は多いのでしょうはないでしょうか。あるいは「映画のような」「CGのような」「絵のような」「ゲームのような」写真、という表現。SNSではもしかしたらほぼ毎日のようにどこかで見かけるかもしれません。この記事ではそれらの写真を「ような系写真」として定義し、そのようなタイプの写真がなぜ今流行しているのか、その社会的な構造を素描するのが目的です。

記事の最初に、結論を書いておきます。2022年6月現在において、毎日どこかで見かけるほどになった「ような系写真」の流行ですが、その究極の原因は2010年代におけるネットワークの高速化とSNSによって進行した「表現のコモディティ化」が発端です。SNSにおいては、一つのジャンル、一つのメディアの表現可能性が瞬く間に消費されるようになり、それ以前には広範囲に可視化され得た「写真らしい写真」「伝統的な表現」が飽和点に達しました。その結果、その飽和点への表現者の自衛的な反応が、「写真表現自体をメディア的にずらしていく行為」である「ような系写真」へと移行を促したのです。これが結論です。

この結論に対して、ここまで読んでいただけた方は、この記事が「ような系写真」を批判する考察が続くと考えられたかもしれませんが、本記事はそのような意図はありません。筆者である僕自身が、時にアニメのような、ゲームのような、CGのような、映画のような写真を撮ることもあります。ですので、全くそのような表現がダメだと思っておりません。むしろのこの流れは、必然であるだろうということをこの記事で定位して、「では次に何が起こるのだろうか?」という未来へと繋げるための、思考的な寄港地を整えたいのです。

では、ここから細かい本論に入っていきます。

(1)SNS時代における表現のコモディティ化

何度も何度も言及していますが、2010年代というのは表現者にとっては「特異点」となる10年でした。表現にまつわるあらゆることが高速化し、その情報の一切がSNSの俎上に上がって消費される前提が整いました。その辺りのことを詳しく書いたのが、以下の記事です。

SNS時代の前半にちょうど写真を始めた僕は、この一切合切の流れを体験し、その流れの一端を促進さえするような経験を経て、今まさに時代は再び転換を迎えつつあることを感じる中で、この辺りのことを何度も発信しています。記事の中でも言及したことですが、2020年代においては、あらゆる表現のオリジナリティが一瞬で剥ぎ取られて、全てが代替可能な「コモディティ」のような状況に陥ってしまいます。もちろん、ごく少数の天才やオリジネイターは、いつの時代でもその輝きを失いませんが、それ以外のクリエイターは時代の波に飲まれざるを得ません。ですから、生き残るためには何かを考えなくてはいけない。そこで書いたのがこの記事でした。

この記事の中で僕はこういうふうに書きました。

「でも20年代のクリエイターたちは、その自ら作ったクリエイティブの価値を、再定義し、再発明し続けといけない。そのためには、自分のクリエイティブの価値が多面性を持つような、「別の場所」を探し出す力がなくてはいけないんです。逆にいうと、一義的に自らのクリエイティブの価値を限定してしまうと、どこかで息が続かなくなる。」

別所隆弘"「残酷なコモディティのテーゼ」に立ち向かう2020年代のクリエイターに必要な資質"

つまり、あらゆる表現領域が例外なく高速に食い潰されるシステムから逃げられない以上、僕らは「別の場所」を探さなくてはいけないわけです。そしてその流れの一つの巨大な結実が、2020年代に入ってすぐに目に見え始めた、「ような系写真」です。

(2)「ような系写真」の勃興

伝統的な写真が、写真という単語の通り「真実を写す」ものであり得た臨界は、おそらく2000年代初期くらいまでだったでしょう。2010年代にアマチュアでさえ高度な機材とPhotoshopを簡単に使えるようになって以降、写真表現は、そもそもが本来的に持っていた強烈な「編集可能性」を爆発させて、あらゆる表現がプロアマ問わず試みられることになりました。そのことは、写真にとって極めて幸福なことです。デジタル化と表現の多様性によって、写真は「あらゆる場所」に入り込むことになりました。

余談ですが、写真は動画によって駆逐されるというようなことを見たことがある人がいると思うのですが、それは起こり得ないと考えています。ネットが高速化し、我々の可処分時間がどんどんと他のいろんな「楽しいこと」によって奪い合われれる現在において、「動画」というのは実は遅いメディアです。その遅さを象徴するように、動画メディア自体がどんどんと短時間化していることはもはや明白な事実でしょう。映画よりも短いYoutubeの動画でさえ、もはや「長い」のです。だからTikTokが流行っているわけです。

そのような流れを考えると、わずか0.2秒で人の注意を惹きつける写真というメディアの象徴的な速報性は、実は今のような状況だからこそ極めて有用であり、それゆえに写真が動画に取って代わられるということはあり得ないと予測しています。もちろんそれが、職業としての写真家の立ち位置を未来永劫に保証するものではないです。むしろそこは今度はAIによる自動生成画像に多くの立場を奪われることになる可能性はありますが、それはさておき、写真というのは「編集可能性」が高いのです。そして、たった一人の個人が簡単かつ安価に編集できるがゆえに「接続性」が極めて高い。そう、接続性、これが鍵です。写真は、他のメディアに簡単に接続して、その接続先を写真本体に取り込むことができるのです。その接続先こそが、「アニメ」「映画」「CG」「絵」「ゲーム」といった、二次元で展開される隣接メディアです。

そのことに気づいたのが2020年代最初のSNSを主戦場にするフォトグラファーたちでした。彼らは、写真というメディアの編集の容易さと、そして接続の簡便さを最大限に活用して、あらゆる「ような系写真」を発掘していきます。例えば動画において「ゲームのような動画」を作ろうとしたら、本当にそれは大変なことです。「西洋画のような動画」を作ろうと思ったら、多分数十人のスタッフが必要になることでしょう。「アニメのような動画」は、もはやそれ自体、言語矛盾ですね。アニメは動画なんですから。そう、動画というのは、実はものすごく「接続性」が小さいんです。動画自体が総合メディアなので、外に接続しようにも、そもそも最初から動画は全部中に含んじゃってるんです。

それに対して、写真は情報が少ないからこそ、全てを一瞬で変えることができる。例えばCGのような写真

註:工場夜景はほんとCGみたいですね。

アニメのような写真、

註:運命だとか未来とかって言葉が届かないような、君の名は。っぽさやコスモナウトっぽさがあるかもしれません。

ゲームのような写真、

註:僕はこの写真で名前を知ってもらったのですが、「ファイナルファンタジーみたい!」って言われました。懐かしい。

このように、高性能化したデジタルカメラが出力するRAWデータの編集可能性を引っ張り出すと、写真はあらゆる方向に簡単かつ高速にメディア領域を「ずらす」ことができます。この行為自体があまりにも効果的だったがゆえに「ような系写真」は一気に流行することになりました。

では、そのようにして隣接ジャンルへと写真を接続してずらすことの目的と効用とは如何なるものなのでしょうか。

(3)「ような系写真」は、なぜこれほど流行したのか

もちろん、その目的は最初に書いた通り「SNSにおける表現のコモディティ化」を避けるためです。ただそれはどちらかというと緊急避難的な動機であって、クリエイターたちが「生きる場」を求めて必要に駆られたからなのですが、そのようなある種ネガティブな理由だけではここまでの流行にはなり得ません。端的に、極めてポジティブな理由があったのです。それは、SNSの構造的な理由が原因です。

SNSのフォロー/フォロワー関係は、一つないしは数個の関心軸によってクラスター化していることは、皆さんも感じられていることでしょう。写真クラスタは写真クラスタで、アニメクラスタはアニメクラスタで、映画クラスタは映画クラスタで固まって「島」を作っています。中世の英国詩人ジョン・ダンはかつて、「全ての人間は島にあらず」と謳っていますが、SNSにおいては人々は巨大な「島」に分けられています。フィルターバブルとエコーチェンバーとカスケード効果によって、僕らの「選好」は常にSNSのアルゴリズムによって先鋭化するようになっているからです。

かつてはこの蛸壺的な選好によるクラスター化は情報流通に好都合でしたが、あまりにも情報が集約して、表現の陳腐化が凄まじく速くなった現状においては、なかなか自分の創作物が拡散しなくなりました。それが今のSNS世界の難しさなんですが、その集団的な孤立性こそが「ような系写真」が極めて高い拡散性を獲得した理由になります。島それぞれが孤立しているということは、逆の見方をすれば、他の島には「潜在的なファン」が眠っているということです。SNSにおいて全ての表現はコモディティ化して陳腐化しますが、そのコモディティ化と陳腐化のスピードや拡散性には、「島」ごとの差異があります。「ような系」写真は、その差が埋まっていないうちに、横の「島」に自分のクリエイティブを効率よく届けることができるのです。

平たくいうと、「写真クラスタ」だけではもはや写真を流通させること、自分のクリエイティブを流通させることは、すごく困難な時代にあって、「アニメのような」と名づけることで「アニメファン」という巨大なファンクラスタへとアクセスし得ることが、この数年で見事に実証されたということなんです。それを可能にしたのが、繰り返しになりますが、写真の編集可能性の簡単さと、接続性の高さだったということでした。そしてその性質がSNSにおいて極めて好都合な性質だったのです。

(4)この先に起こり得ること

さて、皆さんも薄々感じられていると思いますが、この手法自体がそろそろまた臨界点を迎え始めています。なぜなら、SNS時代においては、あらゆるものがコモディティへと終着する運命を帯びているからです。2年前までは「アニメのような」も「ゲームのような」も「映画のような」も「CGのような」も、目新しさと新鮮さで人々のインプレッションを惹きつけることができましたが、写真というのは上にも書いた通り「編集可能性」が極めて容易で、簡単にその手法は真似されて、一気に同じものが溢れかえります。オリジネイターの数人を除いて、そのジャンルを後から追いかけて行っても、もう取り分は少ないことに、若いクリエイターたちは早晩気づくでしょう。だから、また地殻変動が起こります。というか、起こさざるを得ないからです。もし起こらない時は、メディア自体が衰退の瀬戸際であるということです。

その時注意してほしいのは、次に来る未来の新しいクリエイターたちにとって、前を走っている人たちを否定するようなやり方は悪手だということです。かつては新しい表現は、古い表現を否定して破壊するのが常套手段でしたが、それは情報の流通が古い時代の手法です。今の時代においては、古い情報も新しい情報も、わずかな時間で情報価値は平たく等分になる以上、自らの接続可能性を制限するのは、悪手以外の何物でもない。

そのような悪手を取るのではなくて、「別の何か」へと接続する方向へと物事を考えるべきです。個人の使うことのできるデジタルリソースが圧倒的に多い現在においては、個人で状況を打開できる発想を生み出すことは、歴史上最も容易な状況になっています。いまではアニメのような表現なんて当たり前すぎて見慣れたかもしれませんが、それを最初に気づいたオリジネイターたちが最大限に可視化した時に、新たな地平が生まれました。今の時点から見ると陳腐に見える全ての「新しい表現」は、その最初のオリジネイターが気づくまで、誰もそのことに気づいていなかったのです。表現とは、得てしてそういうものなんです。

具体的な方向性なんてのは示せないですが、少なくとも「面白くないこと」への不満を募らせるのではなくて、「面白い方」「誰も考えてない方」「まだ見えてない方」へと発想を動かしていくことが望ましいと、僕は思っています。それができる人が、おそらく次の何かを生み出すはずです。

註:伝統的な撮って出し。LEICA。

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別所隆弘
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