表現のコモディティ化と感受性の無気力化
今日の記事は前回の文章の続きの話になります。前回の文章が「SNSにおいては表現がことごとくコモディティ化してしまう」という話でした。そして記事の冒頭にあとから付記した大事なことなんですが、あの文章は「システム論」なんですね。言い方を変えると、「個人の力では逃れることができない巨大な動き」の話でした。そして今回はそのシステムに巻き込まれた我々人間に何が起こるのかということです。前回が「作り手」側の視点での話だったとすると、今回は「受け手」側の視点からの分析です。
再び最初に要旨を書きます。
表現のコモディティ化に晒され続けると、我々の感受性にアパシー(無気力)が引き起こされ、あらゆる表現に心が反応しない状況に陥る可能性がある。
そしてこのことは僕らにとってさらに心が寒くなるような状況を引き起こすかもしれない。今回はそんな話です。
前回はシステム論で、今回は我々人間の認知の問題を考えてみたいと思います。ここからは個別論に入ります。
1.「どんな写真を見てもあまり感動しなくなった」
先日出した今年最初のnoteのこの記事を本当にたくさんの方に読んでいただきました。
なんと、僕史上一番です。頑張って書いた文章を読んでいただくというのは、本当に嬉しいものです。読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
さて、そんな記事、たくさん拡散していただいたのですが、友人が興味深いコメントをくれました。
「自分の写真を含めて誰のどんな写真を見てもあまり感動しなくなって来ています。」(次の写真のコメント欄から引用させてもらいました)
写真自体は素晴らしくてビビります、まさにこういうのはコモディティにならない写真なんですが、それはさておき、頂いた感想について。実はちょっと前から友人たちからいろんな言い方で耳にするようになったものです。「昔より面白いと感じなくなった」とか、「最近全部同じに見える」とか。
もちろん、上の感想をくれた友人も僕もすっかりおっさんなので、若い人たちのように感受性のアンテナがツンツンに立っているというわけにはいきませんから、単なる老化が原因かもしれません。でもそれにしても、そういうことをいうのは僕らのような中年だけでもなく、若い人たちからも同じような話を聞いた経験があります。原因はなんだろうと考えてみると、表面的には「SNS疲れ」と言われるものでしょう。ただ、その「SNS疲れ」がさらに先鋭化し、深層にまで及ぶと、表現領域に関わる問題を引き起こすように思われます。それが「感受性のアパシー(無気力化)」とでも呼ぶべき状態です。
SNSで綺麗な写真を見ても、面白いはずの文章を読んでも、映画を見ても漫画を読んでも、「なんだか見たことがある」という微妙な既視感を覚えて、段々と意欲を維持できなくなってしまう。途中で離脱してしまう。そんなこと昔はそんなになかったのに、あらゆる表現に対してなんだか疲れを感じてしまう。そんな状況にもし陥っていたら、それはおそらく感受性が悲鳴をあげています。我々の心が、飽和しているんです。何にか、もちろん、コモディティ化された表現の大量摂取に。
2.「パターン認識」がもたらすもの
もう少しこの「感受性の無気力化」の状態を分解してみます。僕らは「なぜ」無気力になるのか。単に大量に摂取したからなのか。ここで注意すべきは「表現のコモディティ化」とはなんだったのかということを、今度は受け取り側の視点で見てみましょう。
前回の記事で表現のコモディティ化とは、「ある表現が瞬く間に代替可能品で溢れかえるようになること」というふうに定義づけました。この時「代替可能品」のイメージは、まるでコピペされた表現が無限に並んでいるような、そんなイメージを持たれたかもしれません。例えばスーパーに並んでいる豚のバラ肉のパッケージのような。
でも表現においては、そこまで露骨な「コピペ」というのは存在し得ないのです。というのは、やはり表現とは個性の表出であり、どんなに類似の表現でも、剽窃の場合を除いて、完全に同じであるということはほとんどの場合あり得ないからです。
そしてそれこそが罠になります。表現におけるコモディティ化の怖いところは、「恐ろしく似ているけれど、僅かに違っている代替可能品」が溢れかえることなんです。僕らの感受性は、その「僅かな差異のある似た表現」を大量に摂取することになる。
その状況をさらに正確にいうなら、僕らはSNS上の大量のコモディティ化された表現に接することによって、あらゆるパターン認識を行なっているということに他なりません。
3. 心のAI化
「パターン認識」という単語で「おや?」と思われた方がいるかもしれません。ある文脈の話となんだか似ているぞと。そう、AIのディープラーニングの話です。AIのディープラーニングは、まさに「少しずつ違うけど、基本的には似ている情報」を大量に摂取することによって、AIが徐々に知性(に似た何物か)を獲得していく過程です。そのことによってAIは「予測」が可能になります。物事の本質的な情報を法則化し、普遍化し、個別の偏差や特異性を均して、平均化し、未知の物事や未来を高精度に「予測」する。そしてそれが極まると人間には認知できないような現象まで見通してしまうのが、現在のAIの凄まじいところです。
でもSNSにおいて、それと自覚せずに我々人間が同じような状況に追い込まれているとしたらどうでしょう。「少しずつ違うけど、基本的には似ている表現」とは、まさに「コモディティ化された表現」に他ならないわけです。それを大量に摂取することは、いわばそれと知らずに受ける「パターン認識の強化訓練」そのものです。表現の僅かな偏差は均され、同じ場所で撮られた写真は、「だいたい似たようなもの」として心の中で平準化される。その結果、僕らは未知のはずの表現を、「それを見る前に予測して了解してしまう」ような、そういう心理状態に陥る。つまり、僕らの感受性のアパシーとは、心のAI化という、ちょっと怖い状況に陥る可能性があるということです。AIは人間を目指して日々成長を続ける分野ですが、人間の知性や感性の方も、超高速のインフラ網に組み込まれて、AI化が進んでいるとしたら、それはあまり笑えない状況です。
こうなってくると最終的に、あらゆるものが「もう見たような気持ち」になるのは不思議ではありません。そしてそれが最後に行き着く先は、例えば見たこともない、行ったこともない場所の写真なのに、もう知ってるかのような感触を持ってしまう状態です。心の内側に膨大に蓄積されたデータベースが、瞬く間に「パターン認識」と照合して、「これは知ってる」と認識する。そう、僕らがインスタグラムやツイッターのタイムラインを見ている時に感じる、あの既視感の正体です。
4.再び「その先にあるもの」、物語とは「ようすらないこと」
この先には何もないのでしょうか?いや、そうでもないかなと思ってます。必要なのは、やはり前回と同じ結論、物語ですね。「他者の物語」ではない「自分の物語」を見つけることに尽きるんですが、前回はそこで話を終えました。今回は、「自分の物語」とはなんなのか、それを少し書いて終わりにしたいです。
「自分の物語」の対局にあるのが、コモディティとしての表現です。そしてそれに晒された心は、あらゆる表現の細部を平均化して、その全貌を単純化してしまう。そういうとき、僕らの心は数多くの表現に対して、心の内側でこんな声を発しているはずです。
「それって要するにこういうことだよね」と。
要するに、清水寺の紅葉写真だよね、要するに夜景飛行機の離陸写真だよね、要するに超望遠花火写真だよね、要するに富士山の日の出写真だよね、要するに最近流行りのフィルムっぽいおしゃれ写真よね、要するに、要するに、要するに...
そう、感受性の不感症、心のAI化と名指した現象は、世界を極めて効率よく見る目線、すなわち世界全体の「要するに化」なんです。
もちろんそうした「要するに化」は、例えばレポートを書くときのような「言葉の経済」が必要な時の「まとめる力」であり、これも一つの知性のあり方です。
でも「要するに」が極まるところにAIがあるのだとするならば、僕らは少なくとも表現という場においては「ようすらないこと」で、救い出せるものがあるはずなんです。かつて僕は、一通の手紙をもらったことがあります。それは僕にとっての写真撮影の核心にある出来事でした。
上の記事の中で、僕はある小さな女の子との出会いを書きました。それは「要するに」でまとめると、「病気の女の子に手紙をもらって勇気を得た」というだけの話です。そしてそのように話すと、そこにあった全ての大事な感情が、いずれ消え去ることになる。僕に起こった小さな、でも大事な物語は、語るものがいなくなった瞬間、跡形もなくこの世界から消えゆくでしょう。この記事の中で僕はある小説からの一節を引きました。長いですがもう一度書きます。
「娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が声の調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。
奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。」
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』
世界をあらゆる手段で語り続けることこそが奇跡と呼ばれる物事の総体であるとこの小説は一冊の本をかけて、ただそのことだけを描写します。「要するに」の中では瑣末な偏差として切り捨てられる個々の要素が、一冊の物語へと変貌する。全ての表現がコモディティとして消費される空間において、僕ら人間がやれることは、それなんじゃないかと。
心が動いた瞬間のことを覚えておくこと、そしてそれを語り続けること、肉と骨を通した声で、シャッターで、筆で、楽器で、CGで、言葉で。「要するに」が、もう僕らの手に負えない高速のコンピューターたちがいずれ全て作ってくれる領域なのだとすると、「ようすらない場所」に、僕らの物語が、僕らが語るべき奇跡が残されているはずなんです。僕はそのように今のところ思っています。