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SNSでバズる写真の分析

まず最初に、今回は僕のSNSの利用スタンスを明示しておきたく思っております。それは「フリーランスのクリエイターとして、現状ではSNSは使わないではいられないし、実際に恩恵も多いけど、SNS特有の数多くの問題点には意識的であるべき」というものです。

今日はそのようなスタンスであることを改めて表明してから始めるべき話題だと思っています。というのも、今回の話は表題の通り、「SNSでバズる写真の分析」という、いかにも誤解を受けそうな内容だからです。上記スタンスであることを前提として明示しておかねば、「こうやればバズる写真が撮れる!」という類の文章に思われてしまう危険性があります。もちろんそうした文章も、マーケティング文脈では必要なことではあるのですが、今回のこの記事は、そういう「この写真でバズれ!」みたいな、イケイケどんどんタイプの話ではありません。そこはまず最初に明記させてください。

その上で、やはり僕らフリーランスのクリエイターは、今の世の中においてはSNSを無視して通ることは極めて難しくなっているという現状があります。その中で、意図したものであれ意図しなかったものであれ、「バズ」がある一定の現実的な(経済的な、と言ってもいいかもしれません)影響力をクリエイターに対して与えるという現実もまた、目を逸らしがたい現実です。そのような状況にあって、「バズる写真はどのような機序に基づいているのか」を考えることは、SNSという大海の中で自分を見失わないための、一つの羅針盤になるのではないかと考えて、この文章を書いています。そして結論においては、「バズ先行型のSNSムーブは終わりに近づいている」という予見へと、話は帰着する予定です。さて、ではここからようやく本論に入ります。

0.バズる写真の三つの要素

最初に議論の要点を話します。SNSにおけるクリエイティブがバズる時、基本的には三つの段階が存在していると考えています。

1.情報の過剰性
2.データベースの過剰性
3.メタの過剰性

今回はこの三つの「過剰性(過少性)」をざっとみていきたいと思います。

1.情報の過剰性(過少性)

一番わかりやすく、かつてはこの部分でのバズが非常に起こりやすかったのですが、現在はひと段落ついていて、むしろ揶揄の対象へとなりがちなのが「情報の過剰性」です。情報の過剰性とは、つまり、写真データの持つある側面における数値が過剰である(過少である)状態を指します。典型的なものは、高彩度高コントラストの写真が挙げられるでしょう。こういう感じです。

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一時期はこのような写真がSNSでもてはやされる傾向がありました。4年ほど前が全盛だったでしょうか。今ももちろん、一般的には彩度高めの写真はまだまだ人気があるのかもしれませんが、ある一定以上のハイアマチュアやプロの写真家では、かつてのような彩度の高い写真はそれほど多くは見られなくなりました。

そうなると今度は、高彩度の論理的な逆転である低彩度低コントラストの写真が流行ることになります。シネマティックな雰囲気を持ったフィルムライクな写真が流行ったのは、ちょうどこの高彩度の写真がひと段落して、その種の写真が「彩度マックス」などと揶揄されるようになってからです。でも実際には、この種の写真は高彩度に対するメタとして出てきた振り子の原理の結果ですので、写真内の情報の増減という視点において、同じ「傾向」の範囲内にあると考えられます。

この彩度問題がさらにひと段落してから新たに目立ち始めた傾向は、今度は超広角レンズで撮られた写真↓や

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超望遠で撮られた写真↓と言った、

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デジタル系のボディの進化に伴ってこれまで簡単には手が出なかった「レンズ上の数値」が過剰な表現が写真界において強い訴求力を発揮し始めます。

そしてさらにそれがひと段落すると、そのようなレンズの数値的な過剰性に対するさらなるメタとして、「オールドレンス」がもてはやされるという流れになります。この2020年に至る少し前まで、デジタル一眼レフが一般層にまで普及する過程においてもてはやされ、「バズ」を作り出してきたのは、各々の写真が含有している「情報」の過多が焦点になっていたと考えると、考察の基準になり得ると思います。もちろん、例外も数多くあることは承知していますが、このような傾向がある程度あっただろうということは言えると思います。

2.データベースの過剰性

こうした「情報」の過剰性が、それ自体として一旦収束し、次の段階に入ったと思われたのは、おそらく2019年頃からです。その頃から、若い写真家たちが中心となって、SNSにおける写真表現の方向性が大きく変わった印象を受けました。その根源にあるのは「データベースの過剰性」です。あるいは「データベース消費」と言ってもいいかもしれません。例えばこんな写真はどうでしょう。

僕のツイートで恐縮です。iPhoneでとって、VSCOで現像し、投稿まで3分かからなかった写真ですが、これが多分僕のとった写真の中で最もバズった一枚になりました。でも、この写真には、誇るべき「情報の過剰性」はひとつもありません。カメラは誰でも持ってるスマホ、現像は課金をしていない状態のVSCO(C1を適用しただけです。スライダーもいじってません)、そして文章もそれほど考えたわけでもなく、ただその瞬間に思いついたことを綴っただけ。でもこれが引っかかった。何にか?もちろん、データベースです

「世界が終わる暑い夏の日」というキーワードと、あたかもセカンドインパクトを思わせる消えた電柱と抜けるような青空。そのアニメ的な空間は、おそらく多くの人が持っているであろう新世紀エヴァンゲリオン的な世界観を呼び込んだものと予想されます。コメント欄にはそのようなレスが多数つきました。

もちろん僕はそれを狙ったわけではないのですが、バズは意図してようと意図してなかろうと、要素が揃えば起こるものです。この時の僕の写真は、人が自分の内側に持っているデータベースに効率よくアクセスしてしまった結果、強烈なバズを発生させてしまいました。

この時に気づいたのは、2019年代あたりから若い写真家たちがSNSにおいて意識的・無意識的に参照していたのは、この種のデータベースだったんだなということです。例えば「アニメのような」「ジブリのような」「ファイナルファンタジーのような」「エヴァのような」と言った、アニメ&ゲーム系のデータベースであることもあれば、「映画のような」「クリストファー・ノーランのような」「ウォン・カーワァイのような」と、シネマティック系のデータベースへと帰結する場合もあります。そのデータベースへのアクセス効率がよければ良いほど、そのデータベースを共有している人間へと届きやすいために、SNSでは容易にバズが起こります。2020年に入ると、「アニメのよう」「映画のよう」と付記される写真がかなり増えたと思いますが、その理由は、その言葉がその種のデータベースへのアクセスを意識的・無意識的に駆動させるキーワードであると人々が認識するようになったからです。

でも2021年の初春の段階において、これも少しもう終わり始めている印象があります。さてでは、2021年現在におけるバズの流れはどのようになっているのでしょう。

3.メタの過剰性

それが「メタの過剰性」とでも名付けることができる現象です。写真自体の数値の増減でもバズが起きず、誰も彼もが「映画のような」「アニメのような」と書いたためにデータベースへのアクセスも、いわば「交通渋滞」が起こり始めた2020年後半あたりから、写真におけるバズの方向がまた少し変わり始めました。もっと見えないところにおける力学が、写真に影響を与え始めるようになりました。それが「メタ領域」です。具体的には例えばインフルエンサー同士のRTやシェアであったり、ヴァイラルメディアの利用であったり、グループ全体による局地的バズの生成であったりといった、いわば「写真におけるマーケティング的手法」が増えてきたのが2021年現在の状況です。

もちろん、このような手法は実は極めて古典的です。かつて大手の代理店やマスメディアが駆使してきた古い形でのバズの作り方ですが、これがなぜ今頃になってSNSに「降りて」きたのか。それは、このような手法を個人でも駆動させることができる、写真系インフルエンサーの増加が直接的な原因です。かつては例えば1万人フォロワーがいるような写真家はごくごく稀でした。たかだか数年前の2018年あたりまでのことです。ところが2021年現在においては10万以上のフォロワーを抱える単独の写真家が何人も存在し、数万のフォロワーなら10代20代の写真家でもいくらでも見かけるようになりました。彼らが何人か集まれば、一瞬で1000万程度のインプレッションを紡ぎ出すことができる。それはもはや、「個人レベルに降りてきたマスメディア的影響力」と言っても過言ではありません

であれば、かつてのように「情報」を過剰にすることも、「データベース」へとアクセスせずとも、自らの持つインフルエンスを最大化して使うことが、最も効率よくバズを生み出せる方法であることは明白でしょう。範囲も効果も、かなりの部分を意識的にコントロール可能だからです。こうした流れは、例えばサロンやサークルと言った、一人の個人の影響力で集団を維持することまで可能にするような世界を作り出すに至っています。

4.その先にあるのは

とはいえ、これもまた、早晩、せいぜい1年から2年程度で飽和するだろうことは予想されます。ここまでの三つの「バズ」の機序は、それぞれに共通している方向性があって、どれも必ず、明示的にアクセスできる「数字」がバズを生み出す原動力になっています。だからこそ、それぞれにおいて「過剰性」という表現をしました。数字が多ければ多いほど、バズへと結びつくという、ある種定量的なバズの機序を有しているということです。でもこの「定量的な側面」は、ドラゴンボールを見ればわかるように、いずれ数値のインフレを引き起こします。そして数値のインフレを何回か繰り返すと、数値自体から意味が失われて行きます。最初は悟空の戦闘力5000にベジータが驚いていたのも束の間、フリーザの戦闘力は53万になります。そして僕は見ていないんですが、映画版ではついに53億にまでフリーザ様の戦闘力は到達するそうです。そうなるともう、数字それ自体の意味合いが軽くなります。定量的な側面で写真やクリエイティブを考えると、いずれこの罠に全てのクリエイターがはまり込むことになる

逆に、SNS時代においてこそ、フォロワーやいいねといった数値の呪縛から解放される人から順に、おそらく「次のステージ」が見えてくるのだろうと思うのです。最初からSNSの呪縛に囚われず、何をやるべきなのかが見えている人もいれば、必死に苦闘した後ようやく見えてくる人もいる。では「次」とは何か。それは「定性的な側面」です。平たくいえば、数値にできない側面。それが、「バズ」先行型のムーブが終わった後に問われるものになるはずです。

何度も何度も同じ話で恐縮なんですが、それこそが「物語」と言われるものになります。以前書いた自分の文章から引用して、今回の話を終えようと思います。

僕はそれを実は「物語」と呼んでいます。もちろん「距離感」だけではありませんよ。表現したいwhatがあって、そのwhatとどんな風に向き合うのかを突き詰めた先に、how化できない視線として「物語」が存在するんです。そしてそれを見つけるのはものすごく難しいし、how化できないということは、それを作る本人でさえ、毎回「表現の苦しみ」に直面することにほかならないんですが、少なくともその過程を経て生まれる表現は、決して他の人には代替できない独自の表現として成立します。20年代以後のクリエイターが目指す一つの道は、この「自分だけの物語をどう表現に落とし込むのか」というところに尽きるんだと思うんです。(上記記事から引用)

「物語」とは、つまり、「バズ」とは違う力場で生まれる表現のことだろうと、今回の話に引きつけて語るならそういうことになるだろうなと。では、どんな「力学」が生まれるか。それは多分、これからの僕ら次第なんでしょう。色々と考え続ける必要があると思うんですよね。

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別所隆弘
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