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本の選定——翻訳という仕事(その2)
前回は、11月の上旬に日仏学院で催された「翻訳者養成プログラム」の概要を軽い調子でリポートしたら、思わぬ反響があったので、ちょっと続けてみようと思います。
対談形式の講演で、われわれ——私の担当編集者と翻訳家である私——がまず取り上げたのは、本の選定でした。
どういう本を選ぶか、ということではなく、選ぶ主体が編集者か翻訳者かというところに視点を置いてみたのです。
結論から言いましょう。編集者に選ばれた本は幸せです。なぜなら自分が選んだ本ですから、社内の企画会議なり編集会議なりで、必死でその企画を通そうとするでしょう。
でも、外から持ち込まれた企画——つまり翻訳者が選んだ本——の場合は、余程のことがないかぎり、編集者のデスク脇の段ボール箱——そういうものがあるとして——のなかで眠ることになると思います。「余程のこと」というのは、原書が十年に一度の掘り出し物であるとか、この掘り出し物を見つけてきた翻訳者が、原書と同じく十年に一度の逸材であるとか、そのたぐいのことです。
では、翻訳者に選ばれた本は不幸なのか? そんなことを言っているわけではありません。書籍に関する情報は、版権事務所と出版社に集中します。
たとえば、あなたが手に取った本(原書)がとてもおもしろく、なんとかこれを自分の手で翻訳したいと思ったとします。で、数ページ訳したら、もう止まらない。つい最後まで訳してしまった(二、三ヶ月かかったか、一年がかりになったかは、この際不問にします)。
そして、あなたはこの原稿をどこかの出版社に持ち込もうとする。
そんなことは絶対にやめてください。
骨折り損のくたびれもうけですめばいいですが、下手をすると命取りになります。いや、大袈裟な警告はやめておきましょう。
要はちゃんと手順を踏めということです。
原書を手にしたら、まず日本の書籍の奥付けにあたる国立図書館への納本日(dépôt légal)を確認しましょう。刊行されたばかりの本か、意外と古い本かがそれでわかります。その次に、その本がすでに翻訳されているかどうかをネットで調べてみましょう(Amazonでの検索が便利です)。
翻訳が出ていなくても、すでにどこかの出版社が版権を押さえているという場合もありますが、まさか版権事務所に手当たり次第に電話をかけて確認するというわけにはいきませんから、ひとまずこのあたりにしておきます。
そんなこと常識じゃないかという人は、これ以上この記事を読む必要はありません。
なぜ、こんな初歩的なことを確認しているかというと、原書を読むという行為は人を盲目にすることがあるということを伝えたいからです。盲目という言葉が適当でないなら、舞い上がるとしてもいい。
本を読むという行為は、絵を見たり、音楽を聴いたりするのとはちょっと違います。文字は記号です。文字の連なりを読んで、そこから意味を汲み取ろうとするとき、われわれは記号をイメージなり、音(発音される言葉)に変換している。それは一種の創造行為なのです。無から有を生み出すわけではないが、それ自体ではなんの意味も持たない記号を意味や映像に変換するという点で、大脳の内部で一種の創造というか、創作に近いことをやっている。
しかも翻訳するとき、人は読みながら書いている。
これはなかなかアクロバットな作業なのです。くどい分析はやめます。
誤解を恐れずに言えば、翻訳には麻薬効果があるということ。たぶん絵を描く行為にも、歌ったり演奏したりという行為にも、あるいは絵を見たり、楽曲に耳を傾けるという行為にもそれはあるでしょう。人はそういう麻薬的なものがないと生きていけない。
手順をちゃんと踏むこと、そして、読む目と書く手をちゃんとコントロールすること。具体的には、辞書を丹念に読むだけでなく、徹底的に事実を確認すること(いわば裏を取ること)。これが陶酔から翻訳を守る基本なのです。
少し論旨(本の選定)から逸れたようです。
どういう本を選ぶかということについては、次回に回しましょう。これはこれでやっかいな問題を含んでいるのですが。