フランスの女(その2)
(今回も引き続き、旧ブログからの転載です)
じつは前回引用した『フランスの女』の冒頭部分は、原作の映画にはないのである。二十数年も経った今では、当時何を考えていたのか、はっきりと思い出すことはできない。ただし自分で書いた文章なので、その根拠を推測したり想像したりすることはできる。映画の冒頭場面は、前回引用した文のあと、アステリスク(*)を挟んで、次のように文章化されている(自分で書いたのに他人事のようですが)。
そう、映画はこの場面から始まるのである。主人公ジャンヌとその夫になるルイの出会いの場面は美しい。なぜならば、スタニスラス広場が美しく、そこに聳える凱旋門が美しく、ロレーヌの古都、ナンシーが美しい街だからである。そして、エマニュエル・ベアールが美しく、ルイを演じるダニエル・オートゥイユの凛々しい軍服姿が美しいからだ。言葉はそれを美しいとしか書くことができない。それ以上の言葉は過剰になるか、同義語との置き換えになるか、説明に堕するか、いずれかにしかならない。文学は、芸術であるために決死の覚悟で言葉によって言葉に切り込む。
だから逆に、この映画の美しい冒頭の場面を言葉に書き起こすにあたっては、むしろできるだけ描写しないようにした。しかし、この場面を小説の冒頭に置くことはできないと考えた。映画は、ジャンヌの少女期をいっさい描いていない。回想シーンもない。だから、小説ではそれを書くべきだと考えた。ジャンヌの少女期がどんなものであったか、それを想像し、言葉の世界に定着させるためのヒントなり情報なりは、映画の冒頭場面にあるはずだと考えた。映画の冒頭は次のように展開する(つまり小説は次のように続いているということです)。
映画配給会社の試写室でこの冒頭場面を初めて見たとき、圧倒されてしまったことを憶えている。ルイ十五世の彫像の建つ広場で、なぜ老人は美女の膝枕で横たわっているのか。なぜ映画監督はこの場面を冒頭に選んだのか? おそらく——と私は考えた——これは事実なのだ。この映画は、ルイス・ヴァルニエ監督が奔放な生涯を送った自分の母親をモデルに構想した映画であると聞いていた。おそらく、ヴァルニエ監督の両親はこのようにして出会ったのだと想像した。
だとするなら——と想像はさらに飛躍する——、初対面でこんなにも老人を安堵させてしまうジャンヌの幼年期には、老人(祖父)とのあいだに流れた親密な時間の記憶が眠っているはずだと考えたのである。そして、ジャンヌのエロスの根拠もそこにあると。映画は——小説は——さらにこんなふうに続く(少しはしょりますが)。
映画では、老人(ルイの父)はこの冒頭場面にしか出てこない。しかし、ルイとジャンヌをつなぐ重要な役割を果たしているのである。この老人はもう映画には登場しないけれども、観客の頭のなかには、冒頭の美しい場面とともに刷り込まれてしまっている。いわば記憶の通奏低音として流れ続けている。この無音の背景音楽を小説世界で再現するにはどうしたらいいか。
その苦肉の策として、小説の冒頭に、祖父が孫にキュベレー神話を語り聞かせるという場面を持ってきたのである。盲目の祖父、これはホメロスなのである。引用を続ける。
川の民。映画には、この単語はおろか、それを匂わせる場面さえない。ジャンヌの奔放なエロスの根拠を強引に川に惹き寄せてみたかったのである。
現在、ヨーロッパと呼び習わされている地域は古代ローマが最大限領土を拡大した時代の版図と重なるということを教えられたのは高校時代だったか、大学時代だったか。古代ローマと言えば道である。石畳の舗装路である。すべての道はローマに通ずと言われる。なるほど、とてもわかりやすい。しかし、大量輸送路としての川、大河についてはあまり語られない。中国であれば、初期の文明の段階から黄河と揚子江が引き合いに出されるのに、ヨーロッパに関しては、経済の動脈路としての川が引き合いに出されることはあまりない。それは私たち日本人が近代化の模範としてのヨーロッパから学ぶことに忙しかったからだ。
フランスに限定していえば、セーヌ川も、ローヌ川も、ロワール川もかつては内陸を横断する大量輸送路としてはほとんど絶対的な存在だった。とりわけライン川はスイス・アルプスを源流として北海に向かう、ドイツとフランスの国境そのものだ。ストラスブール(ドイツ語読みすればストラスブルク)を越えたあたりでドイツ国内を流れ、オランダ国内に入って二股にわかれ、ロッテルダムのあたりで北海に注ぐ。
だが、産業革命の進行にともなって、陸路と鉄路が整備されていくにつれて経済路としての川は二番手三番手の地位に後退していく。それだけではない。民族国家としてのまとまりと締め付けが強まるにつれて、川の民もどの国家に帰属するのか意思を鮮明にし、戸籍の登録先を選ぶことを余儀なくされ、子供たちには国民教育を受けることが義務化される。そして国語が彼らの意識を占拠するようになる。
こんな場面も映画にはない。ジャンヌの父に関する情報はいっさいなかったと思う。エロスと死は男女の恋のなかにだけあるわけではない。国家の盲目の意志のなかにも、人間を戦争に駆り立てる情熱のなかにも、それは潜んでいる。三島由紀夫が生涯にわたって追い続けたテーマを、この映画の小説化を通じて、自分なりに変奏してみたかったのかもしれない。
次は第一章に引き継がれる導入部の締めくくりの一節である。
(つづく)