荒唐無稽
三年がかりで進めてきた長大な小説(『7』)の翻訳も終盤を迎えて、まるで強迫観念のように「荒唐無稽」の四文字がいつも頭のなかを行ったり来たりしています。
もちろん、この小説が荒唐無稽な物語を七つ重ねた作品だからですが(ちょっとした作品紹介は以前やったので繰り返しません)、ひょっとしたら荒唐無稽そのものがこの作品の主題なのではないかという気がしてきたからです。
そこで、まずは手元にある国語辞典(小学館国語大辞典)を引いてみると、
「言動に根拠がなくて、とりとめもないこと。でたらめであること」とあって、坪内逍遥の『小説神髄』からの引用が続いています。
ここで言う「羅マンス」(romance)は、フランス語で小説を意味するロマン(roman)にほぼ重なります(語源的なことや、英語のノヴェルとの違いとか、そういう細かいことには立ち入りません)。
小説は本来というか、あるいは起源としては荒唐無稽なものであったということが伝われば十分です。
つまり、最初に物語があり、神話があったということです。
たとえば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』のような小説でもいいし、もっと遡って新約聖書に収められている四つの福音書とか、さらに遡って旧約聖書の創世記とかを思い出してもらえばいいのです。もちろん、わが国の記紀神話でもかまわない。
でも、最近この頭に去来している「荒唐無稽」は、そういう小説の起源に関わることではないのです。
現実とはそもそも荒唐無稽なものではないのか。そういうことです。
夜空の星々を見上げて、美しいと思い、不思議だと思い、神秘的だと思う心には、太古の人々も現代人も変わりがない、ということに意を唱える人はいないでしょう。
でも、人間は美しいと感嘆するだけに留まることはできない。不思議だと思い、なぜと問い、この驚異的な美しさを、古代人であれば物語に置き換え、現代人であれば数式に置き換える。
つまり、現実とはそもそも荒唐無稽なものではないか、という問いかけは、自然は人間の理屈づけを拒絶してそこにあるということにほかなりません。でも、人間は因果関係をそこに見出さないと納得できない。「根拠がなくて、とりとめもなく、でたらめなこと」をそのまま受け入れることはできない。
ビッグバンという仮説があります。それはほとんど現代人の常識として世界中に流布していると言っていいでしょう。
でも、人間はそれを受け入れたとしても、すぐにビッグバンの前には何があったのか、ビッグバンはいつまで続くのか、ビッグバンが終わればまた虚無に戻るのか、と考えてしまう。
ニーチェは「永劫回帰」ということを言いました。でも、そういう概念を提起しただけで、この言葉に内実はありません。だから、ニーチェは往々にしてニヒリズムの同義語となる。
今、私の頭のなかでは「永劫回帰」と「荒唐無稽」は同義語になっています。
トリスタン・ガルシアの驚異的な小説『7』には、ニーチェという固有名詞は出てきません。でも、「永劫回帰」は明瞭に記されている。
戦慄すべき小説です。