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岐路(その3)
「ちゃんと稼げるようになってどのくらいになるの?」
私は一瞬躊躇してから、十年と答えた。
「その前は?」とソフィーは問いただしてきた。純然たる好奇心よりは同情のほうが勝っているような質問だった。
「取るに足らない職を行ったり来たり、つまらない職場から職場へと移り歩く、うだつの上がらない無名の人生を送っていたよ」
「そのときにはもう自分のために書いていたの?」
「本格的に書きはじめたのは、強制労働のどん底暮らしをするまでおちぶれたときだな。異常な精神状態に陥って、二つの作品をほとんど無意識に書き飛ばしたんだ。何年にもわたって出版社に送りつけたが、採用してくれるところはどこもなかった」
「それって、わたしがすごく衝撃を受けた作品かしら?」
「ようやく出版にこぎつけた最初の譫妄的作品だな。読者は二、三百人、小さな書評が二つ出ただけだった」
「でもそれがある日、全部ひっくり返ったのね……」
「そう、ある恋愛談をほとんどそのままただ淡々と書いたら、世間がみんな目を丸くしたんだ。凡庸の勝利ってやつかな」
「それって少し悲しい話ね」
「まあね。でも、五十にもなって途方に暮れているよりはましなんじゃないかな」
「つまり、あなた五十歳ってこと?」
「正確に言うと、四十九歳。たいして変わらないけど」
「五十歳になるまでの一年間に何が起こるかによって変わるんじゃないかしら?」
私は思わずにやりと笑った。それほど大げさなことを言わずに、常識の縁を切り崩すような刺のある明晰さが私は好きだった。そして、私は彼女の眼に映る自分のブランド・イメージをぶち壊してやりたくなって、大衆受けする二つの恋愛小説のあいだに、死に対する吐き気、無益の感情、あらゆる野望のむなしさを解消するための軽蔑的な作品を書いたということを打ち明けた。
「で、どうやってあなたは、すべては滑稽だという事実を手を変え品を変えて書くという滑稽さから逃れているのかしら?」
「まさにそういうのを書いていると、その無意味の感覚から逃れられるからだよ。そのときは書きたいという欲望しか頭にないからね。それが私の麻薬だ。それで生き延びてる」
「ほかに欲望はないの?」ソフィーは皮肉混じりに言いながら、そう簡単にはだまされないわよという意志を含んだ視線を私に投げかけた。
「ときどき女性が恋しくなるかな。不特定の誰かではなく、本当にある一人の女が欲しくなると、すべてを忘れることができる。どう考えても自分はくたばったほうがいいという気持ちの悪い確信さえ忘れられる。そういう女性が実際に得られるかどうかはどうでもいいことなんだ」
「一人暮らしなの?」とソフィーは言った。そんなふうに聞かれると、ひょっとすると私の詳しい伝記でも書くために、データを録音しているのではないかという気にもなった。
「いや、一人でいることはめったにない。自分自身に満足できる質ではないからね。数週間前まで一緒に暮らしていた女はうんざりして出ていったよ」
「それでときどき海辺にやってくるわけ?」
「そうさ。それしか理由はない。そうでなければ海なんか眺めてもおもしろいわけがない」
ソフィーの顔をしげしげと見つめていると、もっとほじくりたい、もっと奥まで覗いてみたいという好奇心に駆られているようだった。私と同じように、彼女もまた物事の由来をとことん追求し、原因から原因へ、出来事から出来事へとたどり、この人里離れた場所に埋もれているビストロでの出逢いと同じように、なぜ思いも寄らない場所での出逢いが生じるのかを知りたいという思いにとり憑かれているにちがいなかった。
「でも、あなたから離れていったその女性のことだって、どこか違う場所に行けば忘れられるのよね。遠くに旅するとか、別のベッドで自分を慰めるとか、バーで酔っ払うとか……」
「それを言うならヨットを操っているときかな。それが一番手っ取り早く忘れられる。それに悔やんでいるのは彼女を失ったことじゃない、彼女と一緒にいた私なんだ。それまでは若い女と一緒にいて、あんなに安心していられたことはなかった」
「でも実は、彼女が出て行かなかったら、あなたは今日ここにいなかったんじゃないかしら?」
「まず来てないだろうね。一緒にヨットに乗ったこともあったんだが、彼女、暑いのが好きでね、夏の太陽がことのほか好きだった。で、この季節、このあたりは真逆だから……。ところで、私が今日ここにいるということはそんなに重要なことなんだろうか?」
「あなたが思っている以上に重要なことよ」
ソフィーはそう言いながら、ことの深刻さを強調せずにはいられないかのように口をかなり苦しげにしかめた。
「まさに今日? 昨日でも明日でもなく?」と私は言った。
「そう。今日よ、この水曜日」
「あなたと出逢ったから?」
「そう言ってもいいけど」
「どうしてそんなふうに見つめるのかな?」
「そんなふうって? どんなふう?」
「そのぼんやりしているような、いくらか同情しているようなところさ」
「たぶんそれは、以前想像していたのと、いま私が見ているあなたが違っているからだわ」
彼女はさりげなく客観的に、顔色一つ変えずにそう答えた。まるでたんなる事実確認のように。私はその瞬間、彼女ほどの話し相手にはめったに出会ったことがないと思った。言葉に魅せられ、挑発的で、次の質問を誘発するような相手の答えをつねに待ち構え、ただ消耗するだけの無意味で平板な会話に陥るらないように気遣っているのだった。彼女にとっては、それぞれの言葉が別の言葉と絡み合い、しばしばどちらともとれる意味合いと優しげな皮肉や見えない意地悪さを含んでいるのだった。一見すると平凡だが、このうえなく簡潔な言葉によって、すべてが新たな問題となって浮上し、いったい何を考えているのかわからないソフィーの表情にいっそう悩ましげな色合いを与えるのだった。こんなふうに考えていくうちに、私はいつのまにか彼女の柔らかな言葉の持つ甘美さを通じて、もっと直接的な肉欲の甘美さへ引き寄せられているように思えてきた。もちろんだからといって私は彼女のほうに身体を寄せたり、手を伸ばしたりすることはしなかった。彼女は安堵させてくれるようでいて毒気があり、間近にいるようで逃げ去るようでもあり、思いやりにあふれているようでいて冷淡なようにも思えた。私は何も気づかないふりをしていたが、けっしてだまされていたわけではなかった。ソフィーは自分のことはけっして語らず、私よりもはるかに質問を繰り出しながら、たえず私のことを語らせようとしていたのだ。なぜだろう? その理由はわからないが、私は警戒することはけっしてなく、彼女の遊びにうっとりしていた。それは彼女の質問がひときわ気が利いていて、退屈な文化的おしゃべりや、あきれるほど紋切り型の会話だけが幅をきかしている時代ではじつに貴重なものだったからだ。だから私は話題を変えたり、話のリズムや雰囲気に水をさすようなことはいっさいしなかった。逆に、そんなに私の話を耳にしているのかとは訊いてみた。彼女はそれほどではないけれど、私についてのそれなりのイメージは持っていたと答えた。
こうして読者はソフィーの繰り出す質問を通じて、この語り手の中年作家の人となりやこれまで経てきた人生、その作風がどんなものか、徐々にわかってきます。でも、その逆にこのソフィーという女性はますます謎めいた得体の知れない存在となっていきます。その時間の経過の描き方がじつに見事というほかありません。ただし言葉遣いの凝縮度が半端ないので、翻訳の手直しにも時間がかかります。