主語の問題
このnoteのページで、何度か現在翻訳中の『7』(トリスタン・ガルシア)について触れました。
六五〇ページにおよぶ大著の翻訳もようやく最終盤に入り、残すところ七〇ページほどのところまでたどりつきました。年内には初稿を上げるつもりです。来年中に本が出るか出ないかは、編集者のタイムスケジュール次第となるでしょう。
と、こんなふうに今回の投稿を書き出したのは、じつは十一月の初旬に東京の日仏学院で催される「翻訳者養成プログラム」の担当編集者との対談企画のあとに、一時間程度の「ミニ・ワークショップ」(mini-atelier)をやってくれという依頼も来ていて、そのための教材として、トリスタン・ガルシアの『7』とローラン・ビネの『Perspective(s)』のさわりの部分を取り上げようと思っているからです。
今日は、『7』冒頭の「エリセエンヌ」と題された小説——60ページほどの作品だが、著者はこれを短編(nouvelle)とは呼ばず、長編(roman)と呼んでいる——の文体についての話をしましょう。
この小説は一人称単数で書かれています。すなわち、Je という代名詞を主語として、基本的にはこのJe の視点で叙述されています。さてこれがすでに問題なのです。フランス語の一人称単数の主語代名詞は Je 以外にはありえない。英語ならIですね。ではこの主語代名詞に相当する日本語は幾通りあるだろうか?
まずは、私。これは「わたし」とも「わたくし」とも読めるし、そのようにひらがなで表記することもできる。口語調の語りなら、「あたし」、「あたい」とも書けるし、カタカナで書くことも可能。
次に、僕。これも「ぼく」とも「ボク」とも表記できる。
さらには、俺。「おれ」、「オレ」——ヴァリアントとして、「おら」とか「オラ」「おいら」「オイラ」なんかも。
明治時代にまで遡れば、夏目漱石のデビュー作『吾輩は猫である』の「わがはい」。これも猫の視点を借りた一人称小説である。
内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』の「余」も挙げておくべきだろう。なぜかといえば、この著作はもともと”How I Became a Christian"というタイトルのもとに英語で書かれた本をみずから日本語に訳したものだから。このとき内村は、「吾輩」でも「私」でもなく、「余」という主語を選んだ。
ちなみに、近代日本語の文学に決定的な影響を与えたと言われる二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳では、「私」に「わたくし」というルビを振ったり、「自分」という主語を採用したりしている。
さて、もうおかりだろう。
日本語の主語代名詞は無限にあるのだ。そもそも、一人称、二人称、三人称という欧米の言語を基準にした文法体系が日本語には当てはまらない。なぜなら、「私」であろうが、「彼」であろうが、動詞は欧米語のようには活用しないから。
むしろ、日本語には代名詞など存在しないと言ったほうがわかりやすい。「私」「君」「彼」は、固有名詞を置き換えているにすぎない。
逆に欧米語の主語代名詞は、独立した主語であるよりも、動詞の活用に従属していると考えたほうがいいだろいう。
でも、ここではあまり文法的な問題に深入りするのはやめておきましょう。
問題は、「エリセエンヌ」というフランス語の小説をどのように日本語に置き換えるかということだ。
じつはエリセエンヌとは、天才化学者がつくり出した記憶を操作することのできる特殊なドラッグの名前で「生命の年齢」を意味するギリシア語から来ている。さて、ひょんなことから、このドラッグを媒介としたあるセクト(新興宗教)の活動に巻き込まれた薬の売人がこの物語の語り手(主語)なのである。歳の頃は四十代、若くもないが老けてもいない、まぁ中年に属すると言っていいだろう。
さて、この一人称の語りを、日本語に置き換えるとして、あなたなら、どういう主語を選ぶだろうか?
私? 僕? 俺? あるいは、カナに開く?
もちろん、ヤクの売人で四十代の男という情報だけで主語を選ぶのは困難だろう。
じつは、この選択を困難にしているもう一つの理由がある。
それはこの一人称の語りが、単純過去で描かれているということなのである。
ところで単純過去(passé simple)って、何?
フランス語を勉強したことのない人はおそらく首を傾げるだろう。
英語との比較で言えば、英語の過去形は一つしかない。だが、フランス語には複合過去と単純過去、そして半過去の三つの形がある。この複合過去は英語の現在完了に相当し、フランス語の口語において過去のことを語るときは、この複合過去と半過去だけが使われる。単純過去は基本的には文章語のなかでしか使われない。逆に英語では過去形は一種類しかない。現在完了はあくまでも現在時制であって、過去の叙述には用いられない。
英語に過去形が一種類しかないのは、単純に言って、フランス語における単純過去形が消失してしまったからである。この単純過去形はギリシア語、ラテン語から受け継がれた活用だ。英語は、いわばコミュニケーションの合理化のために、ラテン語由来の文法的要素を切り落としてきた言語だと言っていい(たとえば名詞の姓数に応じた冠詞、形容詞の変化)。だから、ある意味では進化した言語であるし、その逆に退化した言語だとも言える。これは人類の進化と退化を考えるうえでも、たいへん重要な視点だろうと私は思っている。
さてさて、また「エリセエンヌ」に戻ろう。
この小説の冒頭は、ヤクの売人がパリ北部の広大なラ・ヴィレット公園をぶらつく場面から始まる。主語は Je 、半過去形の記述が十行ほど続く。半過去は過去の状態、ないしは反復的習慣を叙述すると文法書には書かれているが、一種の背景描写だと考えるとわかりやすい。半過去は口語でも文章語でも使われるから、冒頭の書き出しは、過去の描写としてスムーズに頭のなかに入ってくる。
ところが十二行目に、突如として(?)単純過去が登場してくる。
結果として、私は主語を外して——いわゆる日本語特有の主語無し文で——翻訳することにしたのである。ここだけはなく、四百字原稿用紙換算で百枚ほどの文章から「私」という主語を省いた。もちろん「僕」も「俺」も含めて(会話の部分は除いて)。
一人称単数で書かれた日本語の文章は、主語を「私」にするか「僕」にするか、あるいは「俺」にするかによって、色合いががらりと変わってしまう。
ところが、一人称単数で、なおかつ単純過去を使って書かれたフランス語は、まるで三人称で書かれた一人称のように感じられる。つまり、この Je は語り手ではなく、この物語の視点だということになる
単純過去という時制は、半過去が過去の背景的な叙述を行うのに対して、過去に生じた事実や行為をピンポイントで追っていくときに使われる。だから現在から切り離された過去の客観的事実が語られているという印象を与える。
『7』という大きな物語の重要なパートを占める「エリセエンヌ」という物語は、そういう文体で書かれている。ここで語っている Je は「私」でも「僕」でも「俺」でもない。だから私は、地の文から主語を排除してみようと考えたのである。
さて、この戦略が功を奏するかどうか。ゲラ(初校)を見たら考えが変わるかもしれませんが。