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フランスの女(その3)

(「フランスの女」の続編です。前の前のブログに六回続くと書きましたが。ちゃんと数えてみると八回です。こればかり続けると、この note 自体がどこへ行くのかわからなくなるので、新規書き起こしのテクストとサンドイッチにすることにしました)

 さて、こまった。
 というのも、自分で書いたものなのに、時間が遠く隔たってしまったために、どうやってこんなものを書いたのか、わからなくなってしまったのである。
 文庫版で二百六十ページの小説。そんなに長いとはいえないけれども、短くもない。二百二十ページほどの最初のノヴェライズ(『愛を弾く女』)よりも気合いが入ったことはおぼえているけれど、どのくらいの期間で書き上げたかはもう記憶にない。たぶん二、三ヵ月くらいだったと思う。翻訳にせよ、この手のもの(?)にせよ、当時は一冊につき、これくらいの期間を目途に仕事をしていたから。年間最低四冊は出さなければ食っていけなかったのである。
 それはともかく、十ページほどの導入部のあとに第一章が来るのだが(当然、映画に章立てはない)、導入部とはうってかわって、ここはのっけから戦争の記述で始まる。

 九月一日、ドイツがポーランドに侵攻すると、翌々日、フランスはようやく重い腰を上げて、ドイツに宣戦布告した。だが、宣戦布告はしたものの、腰はあいかわらず重いままだった。歩兵隊中尉のルイ・ミュレールは、ポーランドの抵抗を支援する攻撃部隊の一員としてザール地方に派遣された。だが、またたくまにポーランド軍を撃破したドイツ軍は、二十七日にソ連とポーランド分割協定を結び、実質的にポーランドを支配した。連合軍はポーランドの援軍を送ることもなく、ザール駐留のフランス軍には意味がなくなり、早々に撤退した。その後八ヵ月、フランス軍はドイツ軍に対して積極的な行動をとることもなく、ただ事態の推移を見守るだけだった。

 映画そのものにこんな味気ない戦況説明があるわけがない。たぶん資料をしこたま読んで書いたのだろう。あとがきには、戦争に関する参考資料としては『フランス史3』(山川出版社)と『フランス解放戦争史』(原書房)の二冊しかあがっていない。
 手許にはビデオもない。配給会社が特別に録画してくれたビデオ(もちろん要返却)を何度見返したことか。今ではDVDが出ているらしいけれど、映画をもう一度観てみたいとは思わない。この仕事はノヴェライズをした時点で終わった仕事なので。自分の仕事を読み返すことは、ふつうはほとんどしない。
 それならどうして、このブログで過去をほじくっているのか。その答えはこのブログの記事のなかにある。

 フランス六〇年代を代表する名画にクロード・ルルーシュ監督の『男と女』がある。この映画もまた、ひとりの男とひとりの女の情念と行動の交錯を描いている。時代背景も男と女の役回りもまったく異なることは言うまでもない。一九三七年生まれのルルーシュ監督が〈戦後〉という新たな時代の男と女——自動車レーサーと映画の制作進行を記録・管理するスクリプト・ガール——の姿を描いているとすれば、一九四八年生まれのヴァルニエ監督は戦前、戦中、戦争直後の苛烈な時代を生き延びた奔放な母と軍人の父の姿を描いている。
 誤解を恐れず単純化して言えば、『男と女』からは新たな時代を手探りで生きる男女のためらいとかすかな希望が伝わってくるのに対して、『フランスの女』からはひとつの時代の完璧な終焉と、それを突き抜けた先にある諦念のような——つまり、それでも人は生きるといったような——何かが伝わってくる。
 先走るようだけれど、ジャンヌの死を描いたラストシーンは、まるでフランスという国家の死を描いているように思えた。ルイはフランスのための闘い、傷つき、しかし死ぬことはなく——いや、死ぬことができないまま——、再会と別れを繰り返してきた妻ジャンヌに先立たれる。冬のナンシーの街をひとり歩くダニエル・オートゥイユの姿は圧巻である。
 そして観客は理解する。ルイの愛したものとジャンヌが愛したものは同じであることを。そして男と女は愛しているがゆえに永遠にすれ違うということを。
 だから映画も小説も、戦争の場面と愛の交わりの場面は交互にやってくる。男の場面は女の場面の比喩となり、女の場面は男の場面の比喩となる。そして、それはときに交錯する。
 たとえば、マジノ線。一九三九年九月三日、英仏はドイツに宣戦布告した。しかしフランスはスイス国境からベルギー国境沿いのアルデンヌ地方にかけて築かれた長大な防衛線の裏に隠れて動こうとしない。「マジノ線」と呼ばれるこの防衛線は、しかし第二次大戦勃発の時点では「古い砦」と化していた。パラシュート部隊や戦闘機による攻撃に対抗する構造も対戦車砲の装備もなかったのである。その砦に隠れてフランス軍は動かない。宣戦布告しているのに、戦争は始まらない。ゆえにそれは「奇妙な戦争」と呼ばれる。そして、ルイス・ヴァルニエ監督の『フランスの女』もまたジャンヌとルイの「奇妙な愛」を描いている。
 この「奇妙な戦争」は一九四〇年五月に終止符を打つ。圧倒的な武力によってドイツ軍がベルギー・オランダ・ルクセンブルクに電撃攻撃を仕掛けてくると、マジノ線など何の役にも立たず、アルデンヌ地方のフランス部隊はあっけなく蹴散らされてしまう。ザールから撤退してアルデンヌに配属されていたルイ中尉も捕虜となり、ベルリン郊外の収容所に送られてしまう。
 ドイツ軍の破竹の勢いは止まらない。六月にはパリ入城をはたし、戦闘開始からわずか一ヵ月で第三共和政のフランスは崩壊した。第一次大戦の英雄にして対独協力派のペタン元帥が内閣を組織し、戦争続行派を排除して休戦協定を受け入れる準備を始める。戦争続行と自由フランスの旗を振るド・ゴール将軍はロンドンに亡命政府を立ち上げ、徹底抗戦と市民によるレジスタンスを訴える。
 捕虜となり、ベルリン郊外の収容所からのルイの手紙がジャンヌのもとに届くのは四二年の暮れ、三年ぶりの手紙だった。何十通となくジャンヌ宛の手紙を書いているというのに、戦争の混乱のなかで届かなかったのだ。

 ぼくはただ生きて帰りたい、きみに会いたい。捕虜生活が長くなると、中尉と一兵卒との違いなどなくなります。ぼくは今、ただの男です。毎晩、きみの夢をみます。結婚式のときの写真はもうぼろぼろです。白いウェディングドレスもすっかり茶色になってしまいました。ぼくと同室の友人にアンリという男がいます。彼にきみの写真を見せたら、深いため息をついて、今晩貸してくれないか頼まれました。もちろん断りました。冗談じゃない。きみを夢のなかでも他の男に渡してなるものか。ただし、ぼくは誇らしかった。他人が羨むような女性が自分の妻であることに、いささか優越感を感じない男がいるだろうか。・・・もし、この手紙がきみのもとに届いたら、ぜひ新しい写真を送ってほしい。ぼくはきみのために帰る。その新年を支えてくれるのもきみなのです。よいクリスマスとよい新年を! 百万回のキスを送ります。

 こんな手紙が映画のなかにそのまま「引用」されていたかどうか、もう覚えがない。ただし、内容は映画の物語展開に沿っているはずだ。この手紙を受け取ったジャンヌは、その場にへなへなとしゃがみこんでしまう。「手紙はもういい! 生きているなら、今すぐ帰ってきて! 今すぐ抱いて!」

心の均衡が崩れ、激情が全身にあふれたとき、ジャンヌは初めて喜びを実感した。さっそく衣装箪笥に駆け寄り、とびきり派手な赤いドレスを選んだ。そして、コートを引っかけ、冬の寒風をついて走った。コートがひるがえり、赤いドレスがひるがえった。通行人は目を丸くして振り返り、駆け抜けるジャンヌを見送った。行き先は写真館だった。真っ赤なドレスに上気した頬と首筋、そして寒風に潤んだ青い瞳。彼女はその写真にたった一言〈Je t’aime.〉と書き添えて、ルイのもとに送った。

 一週間後、ルイはベルリンの収容所でこの写真を受け取る。そして、一目散にトイレに駆け込む。

ズボンを降ろすのももどかしく、すでに張り詰めているペニスに手を添えると、たちまち精液は弾丸のようにトイレの壁に飛び散った。尿道が痺れるように痛んだ。そしてふたたび、ゆっくりとペニスをしごき、長く長く射精した。彼もその晩、さっそく返事を書いた。「ぼくはけっして戦争では死なない。けれど、きみの魅惑には殺されてしまうかもしれない」

 ジャンヌはこれでルイとの愛が確認できたと思う。しかし、この愛は思い込みなのである。なぜなら、映画はそのように展開しないから。赤いドレスをまとって街路を走り抜けたときの昂揚こそが愛の確認だったのである。やがてジャンヌはそれを思い知らされる。

 ジャンヌは、夫の帰りを待てずに、ルイの手紙にその名が挙がっている収容所の友人アンリと同棲してしまうのである。
 枢軸国の優勢は一九四二年を境に陰りを見せはじめる。日本軍はミッドウェーの海戦で敗北を喫する。翌年一月、スターリングラード攻防戦でドイツ軍が敗退する。二月ガダルカナル島の日本軍も撤退を余儀なくされる。連合軍は枢軸国を追い詰めていく。フランス国内では、五月に全国抵抗評議会が設立され、国内のレジスタンス組織が統一される。六月にはド・ゴールがアルジェに国民解放委員会を設置し、「この委員会はフランスの中央政府である」という声明を発表する。七月、連合軍がシチリア島を占領し、ムッソリーニが失脚する。十月には枢軸軍が撤退する。窮地に追い詰められていったナチス・ドイツはユダヤ人に対する迫害を強め、フランスのドイツへの強制労働に拍車をかける。十一月、イギリスはベルリン大空襲を開始する。十二月にはアメリカのアイゼンハワーが連合軍最高司令官に就任した。ノルマンディ上陸作戦の準備は着々と進められていく。
 ジャンヌとエレーヌ姉妹はナンシー駅の帰還兵収容センターで働いている。フランス人労働者をドイツでの強制労働に送る見返りに、ドイツで捕虜になった兵士が続々と帰ってくる。ナンシー駅は帰還兵を迎え入れる玄関口になっていたのである。
 そこにアンリが現れる。
「ジャンヌ・ミューレルさんですね。ご主人と同じ収容所にいました」
 アンリはすでにジャンヌの手を握っている。あわててその手を振りほどくが、男が何を求めているのか、すぐに察した。ジャンヌは医務室に向かう。アンリもそのあとを追う。
「あなたから手紙が届くと、ルイはいつもぼくに同封してあるあなたの写真を見せてくれた。そのうち、ぼくまであなたの手紙を心待ちにするようになった。ぼくはただあなたことばかり思ってきた。あなたに恋してしまった。怒らないでください」

 アンリの目から涙があふれた。そして、ジャンヌの手を握ると、そこに濡れた顔を埋めた。これほど自分を求めている男が自分の目の前にいる。それだけで、ジャンヌは耐乏生活のつらさが消えていくような気がした。内部の川が氾濫し、堤防があっというまに決壊した。アンリはジャンヌの腿に手を伸ばした。男の手。ルイと別れてから、五年ぶりに肌に触れる男の手。夢のなかで何度も求めた男の手。干天の慈雨。雪融け。長雨のあとの太陽。ジャンヌにとって、この男の手はたんなる手ではなかった。大自然にまっすぐにつながっていく小さな戸口。ジャンヌは否応なく、そこに導かれていく。もう拒むものはなかった。この男からは将校の肩書きもアンリという名前も失せていた。女の肉体を求める欲望があるだけだった。ジャンヌもまた、自分の名前を忘れ、人妻だということも忘れ、人の言葉さえ忘れ、ただの欲望と化していた。その一瞬にジャンヌは自由のときめきを感じた。

 そこにノックの音が響く。二人は慌てて立ち上がる。だが、誰も入ってこない。興奮は冷めたが、熾のようなほとぼりが芯に残った。アンリは医務室を出て、収容センターへと去っていく。ノックしたのは姉のエレーヌだった。「ほんとにいやらしいひとね。前にも別の男といちゃついていたくせに。あなたは根っから淫乱なのよ!」
 一九四四年二月二十日、連合軍は対独戦略爆撃を開始する。三月にはフランス国内のレジスタンス武装勢力が統一され、六月二日、解放委員会は共和国臨時政府を名乗る。そして、六月六日、「Dの日」、すなわちノルマンディ上陸の日がやってくる。
 ジャンヌはホテルでアンリとの密会を重ねている。男は捕虜生活に疲れ果て、ジャンヌという女の肉体を知ったことで、故郷に帰る気など失せていた。当然、家族はジャンヌの行動に気づく。エレーヌだけでなく、物静かな長女のマチルドも、妹に罵りの言葉を浴びせかける。エレーヌの夫マルクも、もうルイを愛していないのか、別れるつもりなのかと問い質す。だが、ジャンヌには答えられない。肉体には言葉がないから。
 そしてエレーヌが妊娠する。一家はエレーヌとその胎内の子供を中心に動きはじめる。ジャンヌは家族の罵声よりもむしろ、しだいに大きくなっていくエレーヌの腹を見ていることに耐えられなくなった。この家には自分の身の置き場がない、家を出よう、そう決心する。
 連合軍のノルマンディ上陸を機に、戦局は一気に逆転する。フランス国内で軍隊や地下組織が蜂起する。ナンシーではまだまだドイツ軍の力は強かった。四四年八月十九日、パリ蜂起軍が警視庁や市庁舎などを占拠した。二十四日にはルクレール将軍の機甲師団がパリに到着し、その翌日、ようやくパリを支配していたドイツ軍は降服した。二十六日、ド・ゴールはシャンゼリゼ大通りを行進し、全世界にパリ解放を宣言する。そして、九月十五日、パットン将軍率いる戦車部隊がナンシーに到着し、ロレーヌの古都はナチスドイツの頚木を解かれる。
 年が明けた四五年一月、ソ連軍がポーランドを攻撃し、ドイツ戦線を突破する。一月十七日ワルシャワは解放される。二月四日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンがヤルタで会談する。連合軍はライン地方を攻撃し、四月二十五日、米ソ両軍がエルベ河畔で邂逅する。その五日後、ヒトラーは自殺し、五月二日にはソ連軍がベルリンを占領した。収容所の捕虜たちもようやく自由の身となった。ルイがナンシーに帰ってきたのは、その一週間後のことだった。
 その日、長女マチルドの家族は母親のアパルトマンを出ようとしていた。引っ越しの作業が進んでいた。戦争も終わったし、四月に出産したばかりのエレーヌを気遣い、マチルド夫婦が部屋を明け渡そうとしていた。そこにルイが帰ってくる。誰もがルイに気づかう。しかし、真っ先に出迎えてくれるはずのジャンヌがいない。
「ジャンヌはどこにいるんです?」
 義母のソランジュは動揺の色を隠し、つとめて明るく答える。
「ここには住んでいないのよ。もちろん、出ていったのはそんなに前じゃないのよ。レオポルド広場の裏手に小さな家具付きのアパルトマンを借りたの。こうやって窮屈な生活をしていたから息抜きがしたかったんでしょ・・・・・・」
 ジャンヌが小さなアパルトマンでアンリと暮らすようになってから半年が経っていた。アンリはただジャンヌの体を求めるだけで働こうとしない。ジャンヌは夜のバーで働くようになった。彼女の美貌はすぐに客をつかんだ。アンリとの暮らしにはうんざりしていたから、バーの客と夜を共にすることもあった。戦争と占領に疲れた男たちは、ジャンヌが裸になるとむしゃぶりついてきた。まるでおっぱいを欲しがる子供のように。アンリと同じように涙を流す客さえいた。自分はとうとう娼婦になったと彼女は思った。

 ジャンヌはルイとのたった二ヵ月の新婚生活がどんなに幸福だったか、それを痛切に感じた。ルイを愛している。それを疑ったことは一度もなかった。ルイとの結婚を後悔したこともなかった。それなのにどうしてこんなことになってしまうのか。戦争が悪い。そう思いたかった。けれどもそれが言い訳に過ぎないことはすぐにわかった。淫乱。エレーヌの罵声を何度も思い出した。淫乱、そうかもしれない。でもちがう、なにかがちがう。ときめく一瞬の興奮。してはいけない、そう感じたとたんに燃え上がる何か。迷いや罪の意識がふと頭をかすめても、すでに一歩前に踏み出しているこの足、相手に差し伸べているこの手、肌に浮かぶさざ波。一瞬真っ白になって、体から重みが抜けていく、その浮揚感。それが淫乱なのだと言われれば、ジャンヌには返す言葉がなかった。

 ルイはレオポルド広場に向かう。マルクがその腕をつかむ。「行っちゃいけない」。ルイはマルクからジャンヌが収容所で一緒だったアンリと暮らしていることを知る。ルイの絶望を気づかってマルクはルイを抱きしめる。だが、ルイの目には何も映ってはいない。
 ルイが帰ってきたという噂はジャンヌの耳にも届いた。バーのカウンターに腰かけた軍人の話を小耳に挟んだのだ。ルイという名前が耳に入ると、ジャンヌは金縛りになったように身動きができなくなった。ジャンヌは客の誘いを振り切ってバーを飛び出し、夜の街をさまよい歩いた。もう、アンリのいるアパルトマンには戻れない。
 ルイは駅の裏手の安酒場で安物のアルマニャックを飲んでいる。完璧に打ちのめされていた。戦場でのどんな痛苦、どんな敗北よりもこたえた。捕虜生活のほうがましだった。どんな極限生活にも希望はある。人は死ぬ寸前まで希望を抱いているものだ。希望は生の媚薬だ。ジャンヌこそ、その媚薬だった。だが今は、費えた媚薬のかわりに酒を飲んでいる。ルイは思う。

たかが一人の女ではないか。たかが一人の女を失っただけではないか。どうして世界のすべてを失ったかのように絶望するのだ? ジャンヌに何があるというのか。彼女は美しい。それだけじゃないか。それだけ? それがすべてだ。それがアンリを惹きつけた。すべての男を惹きつけた。自分も惹きつけられた。それを今、失った。自分には彼女を惹きつけておく力がなかった。噂ではジャンヌは娼婦まがいのことをやっているという。なぜそんなに男が必要なのか。なぜ、このおれだけでは不満なのか。なぜ、結婚した・・・・・・。

 そして、ルイとジャンヌは再会する。駅の裏手の、ルイが酒を飲んでいる暗いバーで。ジャンヌはルイの姿を目に留めると、迷わず店の中に入っていく。二人は見つめ合い、ジャンヌはへなへなとルイの前の椅子に座りこむ。歩き疲れていた。サックスがブルースを流している。ルイはアルマニャックをあおる。
「アンリのことを聞いたよ。苦しかった・・・・・・。今は苦しくさえない。老いぼれて擦り切れてしまったみたいだ。ぼくは帰ってきた。でも、きみに言うべきことは、きみは自由だ、ぼくはきみに値しない、それだけだ・・・・・・」
 サックスが鳴り止む。駅で汽笛が鳴る。ジャンヌはただ黙って聞いている。
「ぼくは勝者として帰ってくるはずだった。きみはそれを待っているはずだった。どちらも道を誤ったようだ。ぼくらは英雄じゃない。負け犬と売女だ・・・・・・」
 ルイの耳に自分の発した「売女」という言葉が響く。別人が話しているようだった。禁句を口にしたことで、ルイの心がわずかに開かれた。ジャンヌがようやく口を開く。
「ときどき、あなたが帰ってこないのじゃないかと思うことがあったわ。そういう日には、男の人の視線を感じるの。わたしのことをきれいだと思ってくれて、わたしを必要だと思ってくれているような気がしたの・・・・・・」
 ジャンヌの目から涙がこぼれはじめる。
「それが生きがいだったの・・・・・・」
 ルイは黙って聞いていた。ぼくにとってはきみが生きがいだった・・・・・・。理不尽だという思いが胸にこみ上げてくるが、ジャンヌが正直に話していることに、彼はいつのまにか感動していた。いつのまにかジャンヌの青い瞳に吸い寄せられていた。ジャンヌの顔が激しい感情の揺れに歪む。
「わたしをそばに置いてちょうだい。けっして離さないで。わたしはどこにでも付いていくから。私を置き去りにしないで。あなたを死ぬほど愛しているの、ルイ」

 その夜、二人はホテルに泊まった。五年ぶりに互いの肌と肌を確かめ合った。性を交わしているあいだだけ、五年の歳月を越えて、かつて疑いを知らずに愛し合った日々と今がつながった。ルイにもジャンヌにも激情はなかった。それは予期していたより、ずっと穏やかな愛だった。ルイはジャンヌの上でゆっくりと泳ぎ、ゆっくりと沈んでいった。ルイの体の動きはどの男とも違っていた。その動きには言葉があった。ジャンヌの中に入って、ひとつひとつ何かを確かめるように静かに優しく語りかけてきた。ジャンヌはそのひとつひとつの動きに応えるように、細かい肉の言葉を送り返した。ジャンヌはその語らいに快楽よりも幸福を、安堵を感じた。自分はルイの妻なのだ、これが夫婦なのだと思った。だが、性の絆は、たとえ見知らぬ男女でも、一瞬のうちに結ばれるが、夫婦の絆は長い年月をかけて結ばれるものだ。ましてや、一度切れ、もつれた感情の糸をつむぎ直すのはむずかしい。ひとたび二人の体が離れると、それぞれの体にそれぞれの影が尾を引いた。とくにルイは、二人がふたたび夫婦として結ばれることが正しいことなのかどうか、ジャンヌの横で深い思いに沈んだ。

(つづく)

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