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翻訳家の人生
先週の木曜日(19日)、三年がかりで進めてきた六五〇ページの大著『7』を訳し終え、編集者に送りました。メールにはこんな言葉を添えて。
この作品の、とりわけ後半部の文章はいたるところでクラッシュしています。作家が意図的にクラッシュさせていると言っていいでしょう。統辞、時制、語彙、人称、書き言葉と話し言葉、あらゆる方面で衝突させて火花を散らしている。こんなことは若くないとできない。かといって若書きでも悪文でもない。挑戦的、挑発的ではあるでしょう。ただし老体には辛いものがありました。
一週間が経って、今はもぬけの殻です。虚脱感のような、喪失感のような、言葉にはならない穴のようなものがぽっかりと頭のなかに空いています。
ただし、虚しいわけではない。
翻訳という仕事で収入を得るようになってから、三十年余りの歳月が経ちました。翻訳家を志したわけでもなんでもない。食うためにひたすら馬車馬のように走り続けてきたら、いつのまにか翻訳家になっていただけのこと。そう言ってみても、何か嘘くさい。最近は歳のせいか、これがおれの人生かと観念したような気分が悪くもないような。
ぼんやりしたまま、スマホを片手にYouTubeなんか見ています。
十数年前にEテレでやっていた「スコラ・坂本龍一・音楽の学校」に釘付けになって、眼が離せない。
十数年前といえば、私が東京を引き払って、生まれ育った町(帯広)に帰ってきたころ。この番組は当時、リアルタイムで夢中になって見ていた記憶がある。
でも、リアルタイムで見たときとはぜんぜん違う感覚で今は見直している。
たぶん、言語表現にもグルーブ感はあるだろう。それを解放気味にしたり、抑制気味にしたり。それはもちろん、原文のグルーブ感に対応していなければならない。
フランス語のグルーブ感をどうやって捉まえる? そもそも正解なんかないだろう。どこまで行っても主観の世界だろう。
本当にそうか? 議論しているとキリがない。議論だけが空回りする。翻訳は議論ではない。翻訳を重ねないと見えてこないこともある。
自分が翻訳者としてこれまで生きてこられたのは、このグルーブ感を大事にしてきたからだろうとは思う。そして、この感覚に共鳴する編集者が入れ替わり立ち替わり現れてきた、それが自分の人生だった。そう思うとき、満足感でもない、達成感でもない、ただ完了してしまったという感覚だけがのこる。
YMO時代のコンピュータによるグルーブ感の分析の話は、尽きることなくおもしろい。
でも、しっくりと腑に落ちたのは、細野晴臣の話。ニューオリンズで、老人のベーシストが楽器を落とさないように、静かにゆったりと丁寧に演奏していた。それを見た細野は、これだと思う。老いてからの楽器に寄り添うような、同化するような音楽家の枯れた姿に感銘したのだという。
それを受けて坂本龍一がうなずく。若いときのようにエネルギッシュに攻めるんじゃなくて、静かに職人的になっていく感じだね、と。
職人という言葉、仕事という言葉、メチエ(métier)という言葉。ここには時間が、歳月が詰まっている。
私が楽器を操るんじゃない。楽器が私を操る。他人の言葉が私の言葉を操る。自分の言語ではない言語が私の言葉を操る。
老いても肉体はあるだろう。でも、この私なんてものは消え去ってしまう。
今年最後の note です。
みなさんどうか、よいお年をお迎えください。