あんず桜「掌の童話」(一)
昔、ある村はずれに嘉平という猟師が住んでおりました。
村には豊かな田畑が広がっており、猟師で生活を営んでいるのは嘉平の家だけでした。
その村は高く険しい山の麓にあり、嘉平は毎日山で猟をし、ときには険しい岩場を頂上近くまで登ることもありました。
早春のある日のことです。
いつものように嘉平はまだ暗いうちから猟に出かけました。
明けやらぬ空気の中に遠く小鳥のさえずりが楽しそうに聞こえてきました。
明けると快晴でありました。
この山の麓では春でも空は青く澄み渡りました。
雪解けの小川の水音が心地よく、野には若草が萌え始め、青い可憐な花をつけたイヌノフグリ、小さな薄紅の花と葉を幾重にもまとったオドリコソウなどが群生していました。
森に入って行くと小鳥の声が間近に聞こえました。
カラたちの群れ遊ぶ声が移動し、鶯はまだ練習中の新米が多いようでした。
いつもは警戒心が強くなかなか姿を見せないカケスにも出くわしました。
きょうはなんといい日だろう―――、嘉平は待ちわびた春の訪れを嬉しく思いました。
日和に誘われ、疲れを知らぬまま、気がつくと山の中腹まで来ていました。
と、そこで一頭のカモシカに出くわしたのであります。
カモシカは岩場の足が強いため撃ち損じることが多く、普段は嘉平は深追いしなかったのですが、その日は足取り軽く感じられ、ついつい追い登って行ったのでありました。
すると突然、足元から霧が立ち昇り、前も、後ろも、右も、左も、まったく目が利かぬようになってしまいました。
山の天気ではよくあることです。
また、猟師ならよく心得ていることであります。
魔が差すというのはこういうことなのでしょう。
気がついたときには足を滑らせ、沢に転落していました。
<続く>