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消費をやめて一生物を選ぶ

断捨離から考え始めた“モノ“の事

 最近私は食器を片付けた始めた。この間断捨離についてテレビで特集を行っていて刺激を受けたからだ。よく、捨てること、減らすことを断捨離と思っている人がいるが、それはちょっと間違いらしい。なぜかというと「捨てないこと」も断捨離であるからだ。断捨離というのは、過去と未来への強い執着と周囲の価値観を断ち“今“の自分に本当に必要な物を選び取ること。つまり、自分に必要な物を“残す“事も断捨離であるらしいのだ。この“必要“に関しても勘違いしやすい点が1つ。必要というのは“自分の心に”必要かどうかである。魅力的であるか、尊敬や好意、充足感を感じるかどうか、という事らしい。ちょっと私の解釈にも間違いがあるかもしれないが、テレビでの解説はそういった意味合いに聞こえた。

 という事で、私はこれからも付き合っていきたい食器とそうでない食器を分けた。なぜかいつも2個ずつ買ってしまう食器。その必要もないなと思った。彼と2人の生活でも同じ食器で食べなきゃいけない訳じゃない。それぞれ違う食器を並べた食卓も、その歪ささへ愛おしくなりそうだなと思ったのだ。同じ食器を並べなくてはいけないと考えていた私の固定概念も一つ断捨離したのだ。私は一つ自由になった。


消費の行く末

 そこでもう一つ考えた。この選別した食器たちはどこに行くのだろうか。ごみになってしまうのか。でもまだ壊れている訳でも傷がついている訳でもない。私には要らない物でも世界のどこかにはこの1つさえ欲しがっている人がいるかもしれない。結局、中古品買取業者では食器は衛生的に新品しか取り扱いできないので、福祉バンクという業者に収集してもらった。私はお金にならなくていいから、この物たちがまたどこかで使ってもらい、価値のあるものとして生まれ変わってくれたら嬉しいのだ。

 私はこの作業を今までどれだけ繰り返してきたんだろう。物を買っては捨てる、または、売る。これからもどれだけこの作業を繰り返すのだろう。壊れるまで使い切った事ってどれだけあるだろうか。自分で買ったはずなのに自分で手放す。この虚しさを、私のように感じている人ってるのかな。

 単純な購買意欲で買うのを止め、物を買う時には慎重に選びたい。安易な買い物はしたくない。簡単に捨てられる物を買うのやめる。そして半永久的に共に生きていけるものを選ぶ。それって結構難しいことだ。モノも情報も溢れているこの現代社会で、消費の欲求が駆り立てられるのは当然のことであるし、その社会の中で自分にとって本当に合う物を選び取る作業は忍耐と経験によるセンスが要る。そう、センスが要る。無意識の欲求に気が付き、その欲求と意図的に向き合い、頭を使う。それこそがセンスだと思う。


今の私の、これからもずっと使い続けたいモノたち

 そう感じ始めてから少しずつ自分の物の選び方が変わっていった。鞄や上着、靴などは安価なものは買わず、できるだけシンプルでスタンダードな、少し付加価値のあるものを買うようになった。年齢を重ねてもずっと使えるようにだ。様々な商品の色、サイズ感、作りを見てとにかく購入までに時間をかけるようになった。こだわりが増したとも言える。

 冠婚葬祭の服とアトリエナルセというブランドのワンピース。20代でも、50代でも着る事ができそうなデザインでとてもお気に入りだ。そして茶色のぽてっとした本皮のパンプスに、珍しい緑色のオールドコーチのショルダーバック。黒の本革のパンプスも気に入っており、壊れたが修理してもらい5年経った。雪兎印のコーヒーポットも手放したくない私の好きなモノ。少しずつ少しずつ、私が手放せないものが増えていっている。手放せないということはそれに満足しているという事。生活の満足度が上がる。これはアイデンティティの確立にも繋がる感覚がある。簡単に手放せない大切なものが、好きなものが増えていくことは、私にとって人生の充実を意味している。

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