積読について語るときに僕の語ること。
僕の本棚は、九割以上が積読で埋め尽くされている。その理由は、僕の読書方法にある。
まず、僕はとにかく量を読む。だいたい月に少なくとも30冊くらい。多いときは100冊とか。もちろん、全てに目を通しているわけじゃない。小説は全部読むけど。
ざっと目を通して面白そうだと思った本は、一次審査を突破する。これはかなり狭き門だ。だいたい十冊に一冊くらい。これでも精度が高くなった方で、数年前までは二十冊に一冊あれば良い方だった。審査で落とされた本たちは、売りに出されることになる。
一次審査を通過した本たちは、メインの本棚ではなく、サブの小さな本棚で二次審査を待つことになる。それはいつ訪れるのかはわからない。次の日かもしれないし、一年後かもしれない。もしくは、二度とやってこないかもしれない。
そして、運よく三次審査の案内が届いた本たちは、厳正な審査を受け、見事合格すると、お気に入りの棚に移ることが許されるのだ。
そういうわけで、僕の本棚には積読本がひしめき合っている。
ようやく本題。積読についてである。積読は通常、買ったものの読んでいないというネガティブな意味を帯びている。僕は、積読というものを非常にポジティブなものと捉えている。全人類にとって必要とすら思っている。
僕の本棚の積読本は、一定の期間で大幅な入れ替えが行われる。それは、僕の興味だったり思考が変わる時期と一致している。例えば、僕が高校生の頃は自己啓発本やビジネス書でいっぱいだった。大学生に入って数ヶ月経つとそれらの本は一掃され、専門書やポピュラーサイエンスが陣取るようになった。そして今、大学四年生の僕の本棚は、小説や詩集などの文学作品が8割以上を占めている。
積読というのが生まれる過程には、「今すぐは読まないけど読みたい」というある種の理想が存在している。一つひとつの理想が本棚という場で集まったとき、そこに理想の自分が現れる。これが積読が必要な理由だ。
本棚は、自分が周りからどう思われたいかという本来なら見えない欲求を僕たちの目の前で明らかにしてくれる。僕がどんなに否定しようと、本棚の前に立つと「お前はこんな人だと思われたいんだろ」と残酷な現実を突き付けてくる。本棚は嘘をつかない。だからこそ、僕の思考が変わると本棚も変わるのだ。
僕は電子書籍があまり好きではない。それは、積読に隠された自分の理想を隠してしまうからだ。積読なんて知ったこっちゃないという顔を平然としてくるからだ。
さぁ、今日は何を読もう。本棚に向かうと僕は、ドフトエフスキーに一瞥をした後、星新一に手を伸ばした。