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無嗣改易⁉️大村藩存続の危機① ~忠臣編~
いつもお読み下さいましてありがとうございます。
前回の記事「大村家菩提寺、本経寺訪問」の中で
2代藩主、純頼から3代藩主、純信へ。
3代藩主、純信から4代藩主、純長へ。
・・大村家は2回続けて「御家断絶・改易」の危機に瀕しますが、どうにか切り抜けています。御家は続いていますが藩祖、純忠の血筋は3代で絶え、4代以降は幕府勘定奉行の伊丹氏の血筋となっています・・。
と書きましたので、今回はその続きとして、江戸時代初期に大村藩で起きた「御家断絶・改易」の危機について書きたいと思います。
*前回のnote記事はこちら。
ここで大村藩についておさらいします。
大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。中世以来の領主で、戦国期には戦国大名化した大村氏が、豊臣政権下で大名としての地位を安堵され、近世大名に移行したものである。大村藩は幕末・廃藩置県まで存続した。
【大村藩歴代藩主】
大村家
外様、柳間詰[22]→願譜代 表高27900石余[5]。
喜前(従五位下・丹後守)
純頼(従五位下・民部大輔)
純信(従五位下・丹後守)
純長(従五位下・因幡守)
純尹(従五位下・筑後守)
純庸(従五位下・伊勢守)
純富(従五位下・河内守)
純保(従五位下・弾正少弼)
純鎮(従五位下・信濃守)
純昌(従五位下・上総介、丹後守)
純顕(従五位下・丹後守)
純熈(従五位下・丹後守、維新後従三位、死後贈従二位)
戦国時代後期の大村領主は「日本初のキリシタン大名」として知られる大村純忠。初代藩主、喜前の父親です。永禄6年(1563)にトルレス神父から洗礼を受けた純忠は天正15年(1587)に大村の坂口館で死去。跡を継いだのが嫡子の喜前でした。
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![](https://assets.st-note.com/img/1719465182831-G4Yn3t7l8g.jpg?width=1200)
この喜前もキリシタンでしたが慶長10年(1605)、大村氏の経済的基盤であった長崎外町を幕府から接収されたことに宣教師の関与を疑い、領内から宣教師を追放。自身も棄教し、親交のあった加藤清正の勧めで日蓮宗に改宗します。元和元年(1615)に嫡子、純頼に家督を譲り元和2年(1616)8月に48才で死去。迫害を恨んだキリスト教徒によって毒殺されたとも言われています。
![](https://assets.st-note.com/img/1719478546703-wohN4NptRg.jpg?width=1200)
*余談ですが、加藤清正と親交があったためか「熊本城おもてなし武将隊」にはイケメンの大村喜前様がいらっしゃいます。「おおむら花菖蒲まつり」には毎年のようにご帰還あそばされます。(Xのポスト右の写真中、真ん中の方が喜前様)
#おおむら花菖蒲まつり 本日11時より開会致しまする!
— 熊本城おもてなし武将隊【公式】 (@kumajyobushotai) June 1, 2024
我ら #熊本城おもてなし武将隊 のステージは
11:15頃からを予定しておる!
是非とも #大村公園 へお越しくだされ!
大村喜前#大村市#長崎 pic.twitter.com/7icpv2xK21
1 2代藩主、純頼から3代藩主、純信へ
2代藩主の純頼は元和元年(1615)に家督を継ぎますが、4年後の元和5年(1619)に28才の若さで急死(暗殺説あり)。純頼には2才になる男児、松千代がいたものの嗣子として幕府に届けていなかったため、大村藩は無嗣改易の危機に立たされます。
ここで活躍するのが家老の大村彦右衛門純勝です。そもそも藩主純頼は、松千代(純信)の誕生前に理由は定かではないものの子を堕胎させるよう家臣に命じており、それを止めて出産させ、遂には純頼に認知させたのは彦右衛門だったそうです。その彦右衛門は、まず純頼がまだ生きているかのように見せかけて、病により松千代(純信)への家督相続を願うべく近隣の大名へ取り成しを依頼。同じく家老の松浦右近(大村頼直)と元和6年(1620)に江戸へ急行。老中の下へ伺候し、右近は老中から命じられた大坂城の普請を担当、彦右衛門は江戸に残り松千代(純信)の家督相続を何度も訴え交渉したそうです。
さて、江戸に残った彦右衛門は、「老中」(この時点ではまだ年寄といった)をはじめ、純頼が懇意にしていた大名や旗本などの邸へ毎日のように出かけては純信の家督相続を願った。やがて彦右衛門は「老中」から呼ばれたが、この時の状況について、『大村見聞集』によれば、「老中」が言うには、純信がまだ幼少のため、大村家の家督相続は難しい、もっとも、彦右衛門なら「直人」にしても良い、と言ったという。・・(略)・・彦右衛門はこれを断るとともに、「古キ家」である大村家存続と純信の家督相続を願った。このため「老中」たちも感心したという。
「直人=将軍の直接の家臣」へヘッドハンティングされながらもそれを断り、あくまでお家存続を願い出た彦右衛門の忠臣ぶりに幕府の老中たちも心を動かされたとか。
その後の同年5月15日の朝、彦右衛門は幕府から登城を命じられ、純信の家督相続を許可する旨が言い渡されたそうですが
・・大村家側の史料を見てみると、やはり後世の編さん物だが『大村見聞集』によれば、喜前・純頼と短命で死去したため、将軍への「忠節」がないとして、この相続は通常の家督相続、つまり純頼からの家督継承を認めるのではなく、あくまで、「松千代ニ新規領地被仰付候」、新たに大村藩二万六〇〇〇石余を与えるという処置であった。
あらたに知行地を与えるという形式をとったようですね。
この功により彦右衛門とその子孫には大村藩の「長老」(=大年寄)の地位が代々与えられ、藩主家の分家という特別扱いを受けたそうです。
こうして大村藩は無嗣改易の危機から脱しますが、3代藩主の純信も慶安3年(1650)33才の若さで、しかも子がないまま亡くなってしまいます。
再びの無嗣改易の危機!
これをどう乗り切ったかについては、長くなりましたので次回の記事にしたいと思います。
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彦右衛門の忠節を称え、明治40年(1907)に建立されたもの
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遺跡相続を京都の春日社に祈願し成就できたので、現在地に勧請されたそうです。
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最後に補足を2つ。
【大村彦右衛門純勝のエピソード】
彦右衛門の墓は大村市久原1丁目にありますが、その傍らに「身代わり観音」と呼ばれる御堂があるそうです。これは松千代(純信)が大病にかかった時、自身の3才になる娘、亀千代を身代わりとして差し出す代わりに松千代(純信)の平癒を神仏に祈願し、回復したのち、神願に応えるため娘の亀千代を刺殺したそうで、亀千代はのちに「身代わり観音」として祀られたとか。
彦右衛門の忠節ぶりを表すエピソードですが、主家のためとはいえ、なんとも痛ましい話でありますね・・。
【松浦右近(大村頼直)について】
大村彦右衛門純勝とともに松千代(純信)の家督相続に尽力し、大村姓を賜ったといわれる松浦右近。
『新編大村市史付録 諸氏系図』によると、右近は有馬晴純の四男(大村純忠の弟)で相神浦松浦氏へ養子に行った松浦盛の子。長崎開港時の領主、長崎甚左衛門純景(大村純忠の娘婿)の養子となり、甚左衛門が久留米の田中吉政に仕えた後も大村に残り老臣として大村姓を下賜されたのち、養女が生んだ松千代(純信)の家督相続に尽力し、寛永2年(1625)江戸で没したそうです。
・・大村藩の筆頭家老のようですが、大村純忠の甥にあたり、有馬家の血を引く人物だったのですね。大村家菩提寺の本経寺に墓所があるようなので、また行ってみたいと思います。
では、最後までお読みいただきましてありがとうございました。
参考文献
・『新編大村市史 第三巻(近世編)』大村市史編さん委員会
・『新編大村市史付録 第五巻(現代・民俗編)付録 諸氏系図』
大村市史編さん委員会
・『忘却の日本史 九州編 第4号』より「大村藩の苦難と努力」(2016年
3月/㈱ドリームキングダム)
*大村彦衛門墓所についてはこちらをご参照下さい。
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