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無嗣改易⁉️大村藩存続の危機②    ~幕閣編~

いつもお読み下さいましてありがとうございます。
前回から引き続き大村藩の話をしたいと思います。

こうして大村藩は無嗣改易の危機から脱しますが、3代藩主の純信も慶安3年(1650)33才の若さで、しかも子がないまま亡くなってしまいます。

再びの無嗣改易の危機!

これをどう乗り切ったかについては、長くなりましたので次回の記事にしたいと思います。

*前回のnote記事はこちら。


2 3代藩主、純信から4代藩主、純長へ

前回の記事のとおり、忠臣、大村彦右衛門純勝の活躍で3代藩主の座についた純信ですが、実子がないまま慶安3年(1650)5月、33才の若さで亡くなってしまいます。(藩祖、純忠の血筋はここで絶えてしまいます・・)
事態は前回より深刻でしたが、後嗣のいない純信はあらかじめ正室の実家である伊丹氏へ”ある相談”を持ち掛けていました。


【伊丹氏とは】

伊丹家は、もともと摂津国河辺郡(現兵庫県伊丹市周辺)の伊丹城主であったが、康勝の父康直の時に駿河の今川氏に仕え、今川氏が没落した後は甲斐の武田氏に仕え、やがて武田氏が没落すると、家康に仕え、駿河国清水の船奉行を務めた。康直は、後に二代将軍となる秀忠に仕え、慶長五年(1600)の信州上田城合戦に参加し、後に代官さらに勘定奉行となるなど、武功よりも徳川家の全国支配の一端を担う実務家として能力を発揮した。康勝は二代将軍徳川秀忠の側近として活躍した・・(以下略)

(『新編大村市史近世編P61』より一部抜粋引用)


伊丹康勝は元和8年(1622)、家康の側近として権力を握っていた本多正純を改易させるという大役をこなし、土井利勝らとともに秀忠の「最も信頼できる側近」として甲斐徳美藩1万2000石の所領を与えられ、勘定奉行の職のほか甲府城守衛や佐渡金山の管理も任されたそうです。いわば2代将軍秀忠の側近として「ブイブイいわせていた」人物ですね。
3代藩主、純信の正室は、その伊丹康勝の嫡男で勘定奉行の伊丹勝長の娘でした。

(西肥前の小藩である大村藩と幕閣中枢部の実力者である伊丹氏がなぜ結びついたかについて、私見ですが、『新編大村市史近世編』のP37に、元和6年に大村彦右衛門が純信の家督相続の許可を言い渡される場面に伊丹康勝が列座していたとあります。おそらく彦右衛門はこの時の騒動で、御家のために幕閣中枢部と接近しておくことが重要だと悟ったのではないでしょうか。彦右衛門自身も直臣にヘッドハンティングされた位、評価も高かった。そこで、この時のコネクションをもとに純信の正室を伊丹氏から迎えた・・というところだと推測します。それまでの大村氏当主の正室は近隣の国衆や一門の娘でした。)

閑話休題

後嗣のいなかった純信はかねてから正室の実家に相談を持ち掛けており、正保3年(1646)3月、老中に対し「正室の弟(勝長の四男)権吉(のちの純長)と、伯父の大村政長の娘(松浦右近の孫)を結婚させ、自身の名代を務めさせたい」と申し入れます。名代という名目ですが、実質的には養子にしたいということです。
ところがこれには、大村家一門の大村虎之助を次代に据えようとの動きがあったらしく、その背後にいたのは島原藩主の高力忠房でした。
(譜代大名の高力氏としては、今や自身より将軍の信頼の厚い伊丹氏が大村藩に入嗣するのは何かと不都合だと考えたのでは・・これも私見です。ちなみに高力忠房、島原・天草一揆後の島原藩を立て直した名君と言われる一方で、大村藩のみならず自身の正室の実家である松代藩真田氏の後継ぎ問題にも口を出しています。)
しかし、大村家では家中の意思を「次代は権吉」で一本化し、御家騒動を未然に防いだそうです。この辺りは名家老、彦右衛門の手腕が発揮されたのかもしれません。

その後純信は慶安3年(1650)5月に死去。大村藩では伊丹親子(康勝・勝長)の協力の下、同日付で純長を養子とする旨を願い出ました。いわゆる「末期養子」ですが、当時末期養子は幕府により禁じられており(緩和されるのは慶安4年12月)、大村藩にもなかなか許可が下りなかったそうです。『新編大村市史近世編』には以下の様な記述があります。

・・そこで勝長は大村藩の江戸家老大村弥五左衛門を連れて、長崎奉行であった井上政重の屋敷へ行き、大村藩が長崎警備に必要なことを老中へ達して欲しいと願った。長崎奉行である井上の判断が重要であり、更に井上に純長の家督相続についても無事に済むように依頼した。
 その後、幕府から純長の末期養子、及び大村家の家督相続の許可が下りず、・・(中略)・・ただし、大村弥五左衛門純茂は、康勝から国許の仕置や「長崎御用」は純信の存命中どおりに務めているよう命じられており、伊丹親子を頼み存続の可能性があることも考えていたとものと思われる。

(『新編大村市史近世編』P66より一部抜粋引用)


養子願いから8ヶ月以上が経ち年を越した慶安4年(1651)2月、江戸城にて大老、老中、伊丹親子、井上政重も同座の上
「丹後守家は久キ家ニ候得者、古来之者共不便ニ被思召下候ニ依而、御慈悲之上にて跡式無御相違被仰付之旨」
と、ようやく家督相続を許されたそうです。
理由は「久キ家」=「古い家」だからということ。
この決定に伊丹康勝は涙を流して喜んだということです。

(私見ですが、今回の末期養子が認められたのは伊丹親子の剛腕が効いたということと、長崎に最も近い藩として「長崎御用」の重要性が認められたからだと考えています。幕府としても大村家中の混乱を考えると、無嗣改易に処して新たに他家を入嗣させるよりも幕府の息のかかった伊丹氏を養子にして跡を継がせる方がよいとの判断があったのではないかと。それにしても養子交渉に 長崎奉行 幕府大目付で宗門改役である井上政重をも巻き込むとは、さすが幕閣中枢部にいる伊丹親子の腕前といいますか・・)

こうして二度の無嗣改易の危機を切り抜けた大村藩。4代藩主に幕府と強力な繋がりのある伊丹氏から純長を迎えて、やれやれ・・のはずが、その6年後の明暦3年(1657)には、いわゆる「郡崩れこおりくずれ」という領内のキリシタンの一斉検挙事件が起きます。
その数608名!
すわ、3度目の改易危機!と思いきや、純長の迅速な対応と実家の伊丹氏の力もあったのか、幕府からはお咎めなしで御家取りつぶしをまぬがれます。この「郡崩れ」についてはキリシタン関連として、また別の機会に取り上げたいと思います。


放虎原殉教地。郡崩れで捕えられた131名の
キリシタンが処刑された場所です。


2代、3代の藩主が早世した中、純長は71才の長寿を得ました。郡崩れの後の領内は安定し、純長の功績には以下の様なものがあります。前述した通り、藩祖である大村純忠の血筋は3代で絶え、以下、幕末の12代藩主、純煕すみひろまで大村藩は伊丹氏の血筋が続きます。



【純長の功績】

・承応元年(1652)、大村領内に徳川家歴代将軍を祀る「円融寺」を建立。現在は大村護国神社となり、庭園は「旧円融寺庭園」として国指定名勝を受けている。

旧円融寺庭園



・寛文10年(1670)、藩校、集義館を設立。九州内で最も早く、全国でも7番目にできた藩校でした 。

藩校、集義館が建てられていた桜田屋敷跡。
(現在の大村公園内)


・元禄年間(1688~1703)玖島城に付属した「お船蔵」を現在地に築造。藩主の乗る御座船や輸送船などを格納しました。県指定史跡。

大村藩御船蔵跡



その一方で、純長の実家である甲斐徳美藩伊丹氏の嫡流家は純長の兄である勝政の子、勝守が26才の若さで自害(狂気により厠で自害)したため改易、所領没収となります。勝守には娘が1人いて、純長の配慮で大村藩の重臣、福田兼明に嫁いだそうです。
この伊丹氏、実は純長の父である勝長も寛文2年(1662)役目により詮議を行おうとしたところを逆に暗殺されており、ちょっと不穏な空気を感じます。結果として西の端の大村藩に、血縁関係のない甲斐徳美藩伊丹氏の嫡流家の血筋が残ったというのも不思議な巡り合わせのようにも思います。

では、長々とお読みいただきましてありがとうございました。


参考文献
・『新編大村市史 第三巻(近世編)』大村市史編さん委員会
・『新編大村市史付録 第五巻(現代・民俗編)付録 諸氏系図』
 大村市史編さん委員会
・『忘却の日本史 九州編 第4号』より「大村藩の苦難と努力」(2016年
 3月/㈱ドリームキングダム)


【2024/7/10 追記】
本文中ほどに出てくる井上政重について。
引用した『新編大村市史 第三巻(近世編)』には「長崎奉行」とありましたが、正しくは「大目付」で「宗門改役」でした。『新編大村市史』から引用した表現をそのまま使っておりましたが、誤認と思われますので、引用部分はそのままにして本文のみを訂正しました。ご承知おき下さい。










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ひとみ
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