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フェートン号事件について ~大村藩の対応と図書明神~

こんにちは。肥前歴史研究家(自称)のひとみです。
11月25日のNHK-BSの「英雄たちの選択」という番組で「フェートン号事件」を取り上げていました。時間の制約もあるためか番組内で取り上げられなかったことを少し補足として投稿したいと思います。


【フェートン号事件とは】

フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまでおよんだものである。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


その経緯を簡単に記しますと以下のようになります。


①1808年8月15日、ぺリュー艦長率いるイギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げオランダ船と偽り長崎港に侵入。武器を構えオランダ商館員2名を人質にとり帰船。その夜、武装したボート3艘で長崎港内を偵察。人質の解放を要求した長崎奉行、松平図書頭ずしょのかみ康英に対し、薪水と食料を要求、応じない場合は港内の船舶を焼き払うと脅迫した。
②当時、長崎警備当番(江戸幕府では近隣の大藩、佐賀藩と福岡藩に貿易港、長崎の警備を隔年でするよう命じていた)であった佐賀藩では経費削減のため兵員の数を減らしており、他藩の対応も遅く、奉行は船の焼き討ちなどの強硬策をとり得ずやむなく要求をのむことに。オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフからも無謀な報復は止めて要求に応じるよう勧められた。
③イギリス船は人質を解放し、翌々日17日朝には引き上げた。午後、大村藩と佐賀藩諫早領の兵が到着したが、船は出帆した後だった。
翌18日早朝、長崎奉行松平図書頭康英は事件の責任をとって切腹(享年41歳)。
同年11月、佐賀藩主、鍋島斉直も100日の閉門となり、佐賀藩家老等数名も責任をとって切腹。

(以上、Wikipedia「フェートン号事件」、『長崎市史』、『新長崎年表』を参照に記載)



*松平図書頭墓地については以下の記事をご参照ください。


番組内では取り上げられませんでしたが、長崎港近隣の大村藩の対応について『新編大村市史』より補足します。

「長崎奉行松平康英は、急遽、当番の佐賀藩・非番の福岡藩に出動を命じたが、両藩の駐兵人数は少数で即戦力と程遠い状態にあった。(略)このため康英は、長崎付十四藩聞役に非常事態を伝え人数差出を命じた。
(中略)
大村藩は英国船入港の速報を受け、十六日付で藩主大村純昌が「陸地固」「船手固」への動員令に即応する口上覚を送付。手勢を率いて急行したが長崎には十七日英船出帆後の着到となり、緊張感が残されていた大波止を固めた(『続長崎実録大成』三二一頁)。その後、奉行康英は大村藩の「陸地固」を解除。十九日夜、江戸へ注進状を記し切腹している。」

(『新編大村市史 近世編』P307~308より引用)


また、大村藩と同じ頃、佐賀藩諫早領からも兵が駆けつけていた(「フェートン号出帆と入れ違いのように大村と諫早の兵士約八百名が駆けつけたが・・」/『トピックスで読む長崎の歴史』P219)ようです。

そして、これも番組内では取り上げられませんでしたが、図書頭の判断にはオランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフの勧め(説得)も大きく影響したと思われます。

以前のnote記事に書いたように、図書頭の墓地は長崎市の大音寺にあるほか、図書頭の志に同情した当時の長崎市民は「康平社」として諏方社境内に祀り「図書明神」と称したそうです。現在、諏訪神社境内に「祖霊社」として合祀されています。祖霊社の写真をもって本記事のまとめとしたいと思います。

今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

祖霊社



説明板


「康平社」「図書明神」の石碑。


<参考・引用文献>
●『長崎市史第7 通交貿易篇 西洋諸国部』(1938年/清文堂出版/国立国会図書館デジタルコレクション)
●『新長崎年表 上』(昭和49年5月/満井録郎・土井進一郎著/㈱長崎文献社)
●『新編大村市史 第三巻近世編』(平成27年3月/大村市史編さん委員会編集/大村市)
●『《トピックスで読む》長崎の歴史』(2007年3月/江越弘人著/弦書房)

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ひとみ
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