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#2 簡単すぎるという理由で進研ゼミを辞めた

何となく頭に余裕があるので、2度目のセルフ文通をしてみる。

これは約1年前(2023.1.28)に書いたものらしい。

タイトルの話は追々出てはくるが、ほとんど関係ない。

よりによってまたトゲトゲしている。
チクチク言葉の羅列である。

***

鬼滅の刃と最近のDTPデザイン

普段はギャラリーのようなところで仕事をしている。

そこでDTPのデザインをすることがたまにある。展示のポスターなどはいつも外注しているが、ごく稀にそれらも作ることがある。

ある日、某情報サイトに展示のイメージ画像を登録した。しばらくして情報を確認すると、何人かのユーザーが保存した形跡があった。いつもはそのようなことはほとんどない。

なぜだろうか。外注させていただいてる方のデザインが良くないとは思わない。むしろシンプルながらも美しく仕上げてくださっている。

ではなぜそちらがスルーされてしまい、素人同然の作ったものがユーザーの目に止まったのか。

鬼滅の刃ブーム

はじめに、この項は鬼滅の刃を愛する人は、読むことをおすすめしない。

これを書いているのは、鬼滅の刃の面白さを理解できなかった人間だからだ。

ひと言だけ言わせていただくと決して嫌いなわけでも、ましてやアンチなどというものでもない。ただ、面白さが実感を伴って享受できなかった。それだけである。

とはいえ劇場版を観た。アニメ映画を全く観ない母が観に行き、いつも面白いと言わないのに面白いと言っていたから気になったのだ。

残念ながらその面白さを実感することは叶わなかった。

しかし、ここが笑うシーン、ここが泣くシーンと分かりやすく明示されており、なるほどこれが面白いということか、と勉強になった。雰囲気酔いするたちらしく一丁前に涙は流れた。

涙は流れたもののやはり面白さが分からなかった。こんなにも命を燃やした人が死んだら悲しいな、というくらいであった。

思えば小さい頃から桃太郎に熱中する性分ではなかった。好きな童話はアンデルセンの雪の女王である。

釈然としなかったので、漫画をレンタルしてきて読んだ。映画では描かれなかったけれど……というのは、漫画ではよくある話である。

しかし見事に映画通りであった。
9巻まで読んだところで諦めることにした。
大分粘った方だ。

それからしばらくしてアニメの遊郭編を観た。いつもGYAOを好んで観ているのだが、その時たまたま遊郭編が配信されていた。
サービス終了が悔やまれる。GYAOには本当に世話になった。

観てみるか、という気になった。定期的に苦手なものを食べ、本当にそれが苦手なのか確認するような人間なのである。

声優の演技には痺れた。映像も本当にアニメか疑うほど美しかった。ただ、依然としてそこにあるであろう面白さだけが分からなかった。ここまできてしまうと悲しみが勝つ。

そして遊郭編のある場面でその原因に気づいた。

原因は2つあった。

ひとつは炭治郎が鬼の心を語っていることだ。なぜ敵で人間である炭治郎が鬼の内面を理解し、語ることができるのか。

共感力が強すぎる、と言ってしまえばそれまでだ。しかしながら、9巻まで読んだ者の見解としては、そこまで理解できるほどの情緒の経験値と感情のストックはなさそうだった。

また、炭治郎は心根の優しい人間であると称されているのをよく見かける。心根の優しさから共感力と理解ができたか。

それも説明がつかない。心根の優しい人間であるならば、その同情は理解ではなく、憐みの側に立つはずである。かわいそう、どうしてこんなことを、と。動機が解明されるのは辻褄が合わない。

人の性質を完全に白と黒に二分することはできない。しかし、会ったばかりの人間( ここでは鬼だが )の情動をそこまで急速に理解し、言語化することが果たして可能だろうか。架空の物語にこれを求めてしまうのは無粋であろうか。

もうひとつは説明の多さだ。

これは映像作品に限られる。

とめどなく流れていく台詞。今流れている台詞が事実の状況説明なのか、彼の主観および思考なのか、区別することができない。

実況・解説 炭治郎なのである。

実況と解説が同一人物であるがゆえに混乱している。しかし、次から次へと物語は進む。噛み砕き切る前に飲み込まねばならない。

結果、味まで辿りつかなかった。脳の処理速度が追いつかず、何も考えられなくなった。

花江夏樹はすごい。ただそれだけは分かった。


近年のポスターデザイン

近年、名のある美術館、博物館のポスターやフライヤーのデザインが変わってきている、と感じる。

最近はとにかく余白がない。隙間という隙間に画像があり、文字がある。縦書きだろうが横書きだろうがお構いなしである。色味も強く、ハイコントラストに仕上がっている。

どうもあの週刊誌の表紙じみたデザインが気に入らない。余白がなく、抜けがなく、美しくない。興味のある展示でも行きたくなくなることがある。

しかし、このデザインをかれこれ2、3年くらいは目にしている。しかも断続的ではなく継続的に。流行には必ず理由がある。

共通点

この2つに共通するのは、情報量の多さである。

鬼滅の刃の大ブームが一昨年あたり。時期は重なる。これは都合の良い見方である。

また、ファスト映画や早口広告など、短時間ですべてを理解できるコンテンツが急増している。
厳密に言えば分かる、ではなく分かったような気になる、なのだが。

自分が作成したデザインは言うなれば、嘘は言っていないという状態である。

多分あの画像を見て来た人々は少なからず物足りない気持ちになるかもしれない。申し訳ない気持ちにはなるが、デザインとはそういう側面もある。

誤解がないように言わせてもらうと、作品はどれも良いものばかりである。ただ、点数が少なくがらんとしている。小さな場所なのである。

いつか展覧会ポスターにも、こう表記しなければならない時が来るのかもしれない。

※このポスターはイメージです。

***

序論と結論の論点がズレているのはいつものことだが、あまりにも芸術点マイナスだったので、文章の順番を入れ替えるなどした。

オチっぽくなってたらいいな、と潤色を加えたことを白状する。

さて、本題。

当時は週刊誌じみたデザインが溢れかえっていてどうやら辟易していたようだが、今はどうだろう。

チラシミュージアムを見てみると、そうでもないらしい。

どちらかというとメインビジュアルをひとつ使い、周囲に余白を取る。

いうなら「窓的デザイン」が多く見受けられる。こちらの方が個人的には好みだ。

見やすいし、メインビジュアルを上手く使ったおもしろい構図も多い。

よかったね、と1年前の自分に言っておく。

以下、余談になる。

短時間ですべてを理解できる(理解したような気になれる)で思い出したことがある。

ついこの間グラブルの周年イベをしていた。
グラブルの火の鳥とやらは御本家様よりは温情と手心があった。

グラブルはかれこれ7年くらいやったりやらなかったりを繰り返しながら続けている。

いつも知らない間に石が貯まってビビる。
どこかで感謝のお布施をしたい。


それはさておき、いつ頃からかイベントが必ず一度でクリアできる仕様になった。

記憶が間違っていなければ以前はそうでなかった。アビリティを出すタイミングなど表示されなかったはずだ。

ので、自爆することがままあった。

ゲーム慣れしていないのである。

自爆するのもそれでいてクリアできた時の嬉しさが倍になってお得なので楽しくプレイしていた。今の仕様はスムーズには進むが、あまりにも楽で拍子抜けしてしまう。

どうやらグラブルに限らず、難しいのが嫌、というユーザーが少なからずいるらしい。

そして、それがゲームシステムの傾向として反映されている、ようだ。

そう言えば昔「簡単すぎてつまらない」という理由で進研ゼミを辞めたことがある。

その後に届いたZ会はやたら記述が多いのが面倒で、いつも添削を出さなかった。

そして母の巨大な雷鳴が轟くなか、涙のゲリラ豪雨を添削用紙に降らせるはめになる。

それでいうとガチャが異様に渋いソシャゲとかどうなんだ? どのソシャゲか忘れたが、異様に渋いやつがあった気がする。

しかし、その辺はいかに課金させるか、というところなのであまり深く追求しない。商売の摂理である。

とはいえ、すべてのユーザーの要望を満たすのは不可能だ。

久しぶりに超序盤で投げたSRWIIでもやってみようかと思う。

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