やる気を出すための究極の方法
・・・はぁ、今日も一日ダラダラ過ごしてしまった・・・。
そんなことって誰しもあるのではないでしょうか。
すごい人は自分がダラダラしているこの瞬間にも頑張って、頑張って、頑張り続けていたりして、
ふと気づいた時には同じ人生の時間を生きているにも関わらず、圧倒的な差がついてしまっていんだろうなぁ・・・
それならもう自分は凡人のままでいいし、このままダラダラし続けたって、別にいいや・・・
とさらにやる気が出なくなるという負のサイクル、思い当たりませんか?
そんなあなたに「やる気を出す究極の方法」と題して、
オンライン診療医の私からとっておきの処方箋を差し上げます。
それは・・・・・・
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「誰かのためになることかどうか」を考えるというものです。
実はこれは結構いろいろな偉人達がこぞって言っていることなんです。
名だたる偉人の方々がそう言って、名声を得る立場になった秘訣なのであれば、素直に言うことを聞いておくのもよいかもしれません。
「誰かのためになら頑張れる」ということ、みなさんも経験はありませんか?
自分は全く料理をしない人だったけど、恋人と同棲したことをきっかけに料理をどんどんするようになったとか、
部活で1年生の時はただ辛いだけの練習だったけど、2年生になって後輩が入ってきたことを契機にどんどん技術を向上させようという気持ちになったとか、
あるいはこどもが生まれてから人生観が変わったという話はよく聞きますね。
女遊びが止められなかったという男性の有名人が、こどもが生まれた途端そうした行動がパタッと止んだというような話もあります。
それは何でそんな風に変わったのかと言いますと、「そんな風に遊び続けていたら悲しむ家族の顔が目に浮かぶ」という気持ちが生まれたから、
つまりは「誰かのため」を具体的にイメージできるようなきっかけが生まれたからではないかと思うのです。
ちなみに私は最近、本業のお医者さんとは別に「農業」を始めました。
自分で言うのも何ですが、まったく別分野の活動でそれを始めるのには随分ハードルが高そうな印象さえあります。
しかし私の頭の中にあったのは、「農業を通じて患者さんの役に立てることが得られるかもしれない」という気持ちです。
例えば、作物の育つ様子を自然とともに感じることで、
同じ自然の中で生きる動物としての私達人間の健康であるべきための本質的な要素を感じ取ることができるかもしれません。
あるいは外で行う畑作業で、家に引きこもりがちの患者さんが外に出た方がよい理由をもっとリアルに実体験とともに伝えられるようになるかもしれません。
そもそも育てた野菜をおいしく頂くこともできますし、もしも規模が増えればそれを患者さんへ提供し、さらに健康に役立てることができるかもしれません。
最初からそこまで考えがまとまってはじめた「農業」ではありませんでしたが、
始めようと思った時に、「これは誰かのためになりそうだ」という意欲の原石のようなものが私を動かしていたように思うのです。
ということは「・・・何かやる気が出ないなぁ」と、「・・・やりたくないなぁ・・・」という気持ちが芽生えた時、
まずやってみた方がよいのは「そのやる気がでない活動をすることで誰かが喜ぶか」あるいは「そのやる気が出ない行動をしないことで誰かが悲しむか」ということです。
逆に言えば、そのどちらでもない時は、「本当にやらなくてもよいこと」「やる気が出ないとしても致し方ないこと」なのかもしれませんので、
その場合は、心置きなく休んでしまえばいいのではないかと思いますよ。
ダラダラするというと聞こえは悪いですが、次の活動をする前に休息して体力を蓄えていると思えば、それは有意義な時間です。
どうせ休むんなら「ダラダラしてしまっているなぁ・・・」とネガティブに休むのではなく、
「よし次の活動が元気いっぱいで取り組めるようしっかり休もう」とポジティブに休むのがおすすめです。
もう一つ、例を出しますと、「ダイエット」。これまたなかなかやる気が出ないという活動の代表格ですよね。
一時的には頑張れても、なかなか長続きしない「ダイエット」。だからこれを続けられるようにお金をかけたり、人に宣言したり様々なプレッシャーを自分にかける方法があると思います。
でもこれも「誰かのため」を意識してみるとよいのではないかと思うのですよ。
「モテたいから」とか「好きな服が着たいから」というのは「誰かのため」ではなく、「自分のため」の行動理由ですよね。
そうではなくて、例えば「誰かの喜び顔が見たいから」「誰かに認めてもらいたいから」という「誰かのため」を意識してみてはどうかと思うのです。
その思いが強ければ強いほど、自分を突き動かす原動力になるような気がします。
・・・しかし、ここで注意点がひとつあります。
「誰かのため」を意識するあまりに「自己犠牲」になるのは本末転倒です。
恋人に尽くし過ぎるのも、見返りを求めて何かを与え過ぎるのも、たいてい不幸になりますよね。それは「自己犠牲」になっているからです。
例えば私の「ダイエット」経験で言いますとね。
私は昔134kgくらい体重の重かった時代があるんですけど、「糖質制限」という食事療法で約30kgのダイエットに成功した過去があります。
でも30kg減ったところで、104kg。世間の標準からするとまだまだ肥満の範疇に入る体重です。
それでですね、私もさらにやせようと「断食」をしてみたり、「糖質制限」を強めてみたり、いろいろ試行錯誤した時期が数年間あるんですけどね。
結局そうすればそうするほど「自己犠牲」になってしまっていたんですよね。なんだか苦しいんです。続けられないんです。
それでですね、ふと気づくと実は今の104kgくらいの体重が一番体調のよい状態になっているんですよね。
なんで私の体重が104kg以下に減らないのかについては、私も医者なので一生懸命調べて考えてたどりついた一つの結論があるんですけど、
それはまた別の機会に語ってみようと思いますので、よかったら「たがしゅう」をフォローしてみて下さいね。
さて「自己犠牲」になってしまっているなぁと気づいた時、私のこの「ダイエット」は「誰かのため」にやっていることなんだろうか...?とふと考えてみたわけです。
そうすると私自身は今が一番体調が良いわけですし、別に私がやせたからといって喜ぶであろう人はあまり頭に思い浮かばないんですよね。
頭に浮かぶのは「もしもやせたら私に目を向けてくれる異性が出てくるかもしれない」などというよこしまな「自分のため」の理由ばかり。
だったら私にとっても「ダイエット」はそんなに一生懸命やらなくてもいいんじゃないかと思うわけです。「誰かのため」につながらないですからね。
しかも私は「私の体重がこれ以上減らない理由」に気づいています。そうなれば、やることは決まりです。
無理に「ダイエット」しないこと、ありのままの自分を受け入れることです。
そんなやる気の出ないことよりも、「誰かのため」になるような活動に人生の時間を使っていきたいですね。
皆さんも、そう思いませんか?
しかも、この考え方にはもう一つよいところがあります。
いくら自分がよかったとしても、世の中には「肥満ではない人に価値を見出す」という人達もいますよね。
おそらくそういう人は私がいくら理屈をこねたところで、肥満体重にある私の価値を低く見積もるのではないかと思います。
そうすると人とつながる機会も少なくなってしまうと不安になるかもしれません。
でもですね、そもそもそういう価値観の全く違う人とはつながらない方がいいんですよ。
人の価値観は違って当たり前ですが、少なくとも自分の価値観を理解してくれる人とつながった方が、一緒に何かをやるときに明らかに楽しくできると私は思うんです。
いや、もちろんね。価値観の合わない人を無視しようっていうことでもありませんよ。
「誰かのため」を考える上での価値観がしっかりしていれば、自然とそれに合う人達が自分のもとに集まってくるよ、ということが言いたいんです。
それでですね、その価値観が合わない人のことも無視するんではなく、今はまだ縁がないだけと距離をおいておくだけでいいんです。
私の「価値観」の一つは「他人のことを見た目(体重)で判断しない人」。
私がやる気の出ない「ダイエット」をしないことは、相手がその価値観を持っているかどうかを知るためのフィルターになるという言い方も出来ますね。
そんな考え方、ちょっとは参考になるでしょうか。
皆さんにも「あ〜、やる気が出ないなぁ」と思った時にふと考えてみてほしいです。
それは「誰かのため」になるのかどうか、
そしてその活動は「誰かのため」のみならず、「自分のため」にもなることかどうか、
自分の価値観を大事にしていることなのかどうか
自分は人生の中で何がどうなることが大事だという価値観を持っているのか、
・・・哲学的ですね。・・・私、哲学って大好きです。哲学ってこんな風に日常的なものなんです。
私は人生の本質を考えるのが好きなお医者さんです。