
【映画感想】『二郎は鮨の夢を見る』
今日はアマプラで何か映画でも見ようかな。
ゴジラ×コングの映画やってるし、
ハリウッド版ゴジラを一作目から総ざらいしてみようかな…
なんて考えていたら、突如顕れる発狂の兆し。
あぁ…全然興味ない映画見なきゃ…
僕にはたまにコレがくるのだ。
ワクワク感を覚えると、全く意味のない無軌道な行動でそれをぶち壊したくなってしまう終末的衝動性が。
ラーメン屋の目の前まで来て
ここで帰って家でインスタントラーメン食べちゃったら全部台無しだなぁ…
と思ったが最期、もう身体は踵を返しているのだ。
『何やってんの!?わざわざ車でここまで来たよね!?平日ずっと週末のラーメンを楽しみにしてたよねぇ!!!』
理性はそう叫ぶが、
心の奥の獣にとってはそれすらも自らを讃える喝采に聞こえてしまう。
期待も計画も労力も全部全部おしまいになってしまえ。
そんな破滅願望に脳細胞を浸潤された僕は家でカップヌードルを啜りながら死んだ目で虚空を見つめるのだ。
そこに悔いはない。
僕はそういう人間だからだ。
いつかこの性分が僕を取り返しのつかない苦境に追い込むんだろうな。
そして今日も獣は囁く。
全然興味ない映画見て時間を無為に過ごそうぜぇ…
あぁ…僕の休日が…
そして選んだ作品がこちら。
『二郎は鮨の夢を見る』
アメリカ人監督のデビッド・ゲルブが、東京・銀座の名店「すきやばし次郎」の店主で寿司職人の小野二郎さんに密着したドキュメンタリー。大正14年(1925年)生まれで現在も現役の小野二郎さんが店主を務める「すきやばし次郎」は、「ミシュランガイド東京」で5年連続の三ツ星を獲得し、ヒュー・ジャックマン、ケイティー・ペリーら世界のセレブも訪れる名店として知られる。その寿司に感銘を受けたゲイブ監督が、3カ月にわたり二郎さんに密着。二郎さんの仕事に対する誠実な姿勢や、父を超えようと切磋琢磨する2人の息子との師弟関係などを描き出していく。
虚構の爬虫類と闘う人類たちの物語と、実在の魚類と闘うお爺さんたちの物語。
ゴジラと真逆じゃん…!!
タイトルのインパクトに負けてしまった。
まずドキュメンタリーなんてほとんど見ないし、
(スーパーサイズ・ミーは例外。アレはいいドキュメンタリーだ)
おそらく一生行かない (行けない) であろう高級寿司屋が題材ときた。
正気だったら絶対見なかっただろうが、これも経験と思って再生開始。
舞台は銀座の地下にある「すきやばし次郎」という寿司屋だ。
食に疎い僕でも少しは聞き覚えがある。多分名店なのだろう。
この店は10席程度の小さな規模ながら、ミシュランで三つ星を獲得しているそうだ。
ミシュランにおける三つ星とは、「その店で食事するために旅をする価値がある」レベルなのだと言う。
…飛行機に乗ってでも食べに行くべき店か。
多分僕は、これまでの生涯でそこまでのモノ食べたことないな。
ある男性が予約の相談に来るシーンがあった。
予算は1人3万円から。
から!?
しかも仕入れ値によって変動があるらしい。
(恐ろしいことに、これは10年以上前の作品である。昨今の物価を加味すれば現状はおそらく当時より高価格化しているであろう)
こういうちゃんとしたお寿司屋さんで食べたことないが、相場こんな感じなのか。
結構勇気がいる額だが、最高のネタを仕入れるためにはこれくらい取らないとやってられないんだろう。
職人さんたちも味のクオリティ確保のため過酷な研鑽を積んでいる。
まずは火傷するほど熱いおしぼりの準備から始まり、
魚の仕込みを経て、
卵焼きに挑戦する資格を得る。
この間10年である。
…まだ寿司握ってないよ。
しかもここでもまだ『卵焼き挑戦権』だから。
半年、卵焼きを作り続けた。
何度やっても親父さんは「これは出せない」と。
200回くらい失敗してとうとう認められ、
その時にようやく『職人』と呼んでもらえたとか。
それまで職人じゃなかったんだ…
そういえば以前、ホリエモンが「寿司職人は修行に時間をかけすぎてバカ」みたいな文句つけてたな。
確かに魚と米を成形する技術を写し取るだけならそんなに時間は要らないだろう。
しかし、今回僕はこの映画を見て思った。
このあまりに長すぎる修行時間は、技術を身につけるというよりも『寿司への忠誠心を養う』のに必要なのではないかと。
親父さんの寿司はとてもシンプルで、奇抜なことは一切していないとみんなが口を揃えて言っていた。
それでもなぜか味に奥行きがあると。
シンプルなことを極めたからこそ至る境地なのだ。親父さんの寿司は。
新しい要素を+αして価値を付与するのは多少のセンスがあればできる。
対して、基礎『だけ』を徹底して高みを目指すには相当な覚悟が必要だ。
少しでも寿司をナメてちゃ、次郎の寿司にはならんのだ。
だからたっぷりと時間を使って身体に叩き込む。
寿司ナメんなと。
さらにこの店主、寿司のみならず客にも真摯に向き合っている。
終盤、団体で来店した客に寿司を振る舞うシーン。
目にも鮮やかな魚が次々に供される、まさに作品のクライマックスだ。
食事の最後にメロンが出てくる。 (高級店でもメロン出すんだ…)
「男女でメロンの切り方変えてるんですよ。女性は少し小さめに」
胃の容量を考慮してサイズを変えていたのだ。
しかもこれまでの寿司も全て。
「席順で男男女女…って覚えて、それに合わせて握るんです」
驚愕する客たち。
とどめに1人の客が口を開く。
「…私、左利きなんですけど。最初に左手で寿司を取ったら何も言ってないのにそれ以降全部左向きで出してくれてた…」
もう怖い。
10人いる客がどの席に着いているか、
しかもその中に左利きの人間がいるかまで咄嗟に判断しているのだ。
味だけでなく、こういう細かい気遣いも少しの驕りとか「楽したい」みたいな気持ち一つですっぽ抜けかねない。
どこまでも『抜かない』。
だからこそ、ここの寿司には価値があるのだ。
最初は全然興味なかったけど、見りゃ見たなりに発見やら気付きがあるものだ。
創作論であり、継承の物語であり、人の歴史でもあった。
最近「面白くないと思った映画をさっさと切る勇気」みたいなのが話題になってたが、
おもんないなりになんか引っ張り出そうという姿勢こそが大事なんじゃないか。
だからこれも『映画ナメんな』なのだ。
鑑賞というシンプルながらも奥深い技術。
これに時間をたっぷり使って向き合わずして何が職人かと。 (職人ではない)
…なんつってる間に12時ですよ。
昼からゴジラ見よ。