子どもの気持ちに寄り添うために「やめなさい」と言われてもやめなかった時の記憶を思い返してみた
1561記事目(この記事は約2分で読めます)
こんにちは、旅人先生Xです。
今日は「子どもの気持ちに寄り添うこと」について、過去のことを振り返りながら考えていきたいと思います。
のんびり目を通していっていただければ幸いです。
目次は、以下の通りです。
椅子をギコギコしている子を見て思ったこと
皆さんは、学校の椅子をギコギコ揺らした経験はありますか?
私はあります。
なんなら、ほぼ毎日やっていたと思います。
ちょっとギコギコし過ぎて、「ビクッ」となるあの瞬間は、なかなかスリリングだった記憶があります。
あれ、危ないんですよね。
椅子も傷むし。
バタンと倒れるのももちろんですが、椅子が倒れた時に他の人の足にぶつかると大怪我になってしまうことがあります。
ですから、「危ないからやめよう」と子どもたちにも声をかけるわけです。
立場もありますが、危ないから声をかけています。
ただ、同時に脳裏によぎる自分もやっていた頃の記憶。
すっかり忘れてしまっていますが、多分、自分も先生に同じようなことを言われていたと思います。
それでもやっていた。
そんな自分が、今は逆の立場で「危ないよ〜」と言っているのは、不思議そのものです。
なぜ、やめときなと言われてもやっていたのか。
記憶を辿ってみたいと思います。
「特に理由なんてない」からなんでと聞かれても困るかもしれない
なぜ、椅子をギコギコしていたのか。
私は記憶を辿りって考え、一つの結論に至りました。
それは…
「椅子をギコギコしていたことに特に理由なんてない」ということです。
私の場合はなんとなくやっていました。
なんなら、一度も明確な理由を持ってやったことないと思います。
学校現場では、「どうしてそうしていたの?」と訳を聞くことは多いですが、もしも当時の私が聞かれたら、「訳が分からない」となっていたと思います。
意外とそういうことってありますよね。
特にわけもなくやっていること。
思い返せば、
わけもなくやっていました。
常に理由を求めてしまいがちですが、忘れてはいけないなと思うのは、「なんとなくやっていることもある」ということです。
なんとなくやっていることにも何か理由がある!という考えがあるのもわかります。
実際に「理由があるかもしれない」という見方で捉えていくのも子どもの様子をみていく上では必要不可欠なことだと思います。
一方で理由を問われれば、なんとなくやっていても、なんとか捻り出す子もいるでしょう。
また、本当になんとなくやっていて、過去の私のように聞かれたら、訳が分からなくてフリーズする子もいるのではないかと思います。
ですから、個人的には、「深く考えずにすることもある」という捉え方というかスタンスで受け止めてあげた方が子どもも大人もお互い気楽なんじゃないかなと思います。
常日頃から理由や根拠を求められ続ける状態ってなんだか疲れるし、萎縮しちゃいそうですからね。
理由や根拠を明確に示す時とのんびりと過ごす時を上手に切り替えていくこともまた一つの良い経験になるんじゃないでしょうか。
メリハリというやつです。
「特に理由なんてないということがあるかもしれない。」
子どもと接する時に、そんな考えを頭の片隅に置いておくと笑って対応できることも増えるのではないかなと思います。
今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございます😊
ではまた、次の記事でお会いしましょう。
みなさま、皆様、良い一日をお過ごしください。