身近過ぎるがゆえ、価値に気づかないこともある【多田修の落語寺】
くず屋(廃品回収業者)の清兵衛が、浪人・千代田卜斎から仏像を買い取ります。その仏像を、細川家の家臣・高木佐久左衛門が買いました。
高木は江戸に来たばかりで、手を合わせるためのものを探していたのです。買った仏像を洗っていると台座がはずれ、中から小判で五十両出てきました。高木は「仏像を手放すということは、よほど生活に困っているのだろう。仏像は買ったが中の小判まで買ったつもりはない」と、小判を元の持ち主に返そうとします。清兵衛が取り次ぐと、千代田は「小判があるとは知らなかったが、手放したら先方のもの」と受け取りを拒否。結局、千代田と高木に二十両ずつ、清兵衛に十両、分けることになりました。
千代田は、ただで金をもらうわけにはいかないと、品を売った代金という形にするために、使い古しの茶碗を高木に譲ります。後日、それが「井戸の茶碗」という名器であることが判明し、細川家が高木から三百両で買います。高木はその半額を千代田に渡そうとしますが、その受け取りの条件は?
仏像の内部が空洞になっていることがよくあります。乾燥で収縮することによるひび割れの防止(木像の場合)や、重量軽減などのためです。「井戸の茶碗」とは高麗(こうらい)茶碗(朝鮮半島渡来の茶碗)の一種で、朝鮮よりも日本で評価され、茶器として珍重されてきました。
千代田は高価な品を持っていましたが、それを知ったのは手放した後でした。私たちの身近にも、気づいていない価値あるもの(金銭的な価値に限らず)があるはずです。
多田 修(ただ・おさむ)
1972年、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、龍谷大学大学院博士課程仏教学専攻単位取得。現在、浄土真宗本願寺派真光寺住職、東京仏教学院講師。大学時代に落語研究会に所属。