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「シャリ」の由来は、火葬された仏さまの「〇〇」だった? 実は意外と身近な仏教用語8選、集めました。①

普段何気なく使っている言葉が、実は仏教に由来する言葉であることも。そこで今号は、編集委員たちが選んだ、意外と身近な仏教用語とその由来をご紹介します。

十八番(おはこ)

 カラオケなどでよく言われる十八番は、七代目市川団十郎が定めた歌舞伎十八番からきた言葉。おはこという読みについては、その台本を箱に入れて保管したことに由来するという説が辞典に出てくる。

 しかし、そもそも当時、台本は箱にしまうものだったのか、疑問を呈する向きもある。そしてなぜ十八か。
 
 阿弥陀如来の四十八願のうち、念仏往生を願った第十八願にちなんだものという話は浄土真宗僧侶の間でよく語られるが、その説は書物にあまり出ない。1969(昭和44)年発行の出版物に、大正大元学長で大の歌舞伎通だった仏教学者の福井康順博士が、当時この説を提唱し、それを高名な演劇学者が「新しい有力説」と評価したものはある。面白い表現だが、十八番が十八願由来であった可能性は少なからずあるようだ。

※取材協力=松竹株式会社歌舞伎製作部・松岡亮さん (星)

我慢(がまん)

「我慢強いね」と言われたら私たちは辛い状況に耐えて頑張っているというような肯定的な声かけだと感じる。
 
 「我慢」という言葉はサンスクリットの「マーナ」の訳語として漢訳仏典で充てられている。

 『佛教語大辞典』には「自己の中心に我があると考え、その我をよりどころとして心が驕慢であること。おのれをたのんで心のおごる煩悩。自らをたのむ慢心」とある。自らの能力や持ち物を人と比べおごりたかぶり人を見下すというような、極めて否定的心の動きをする煩悩の一つとして経典では用いられている。

 「マーナ」の音訳が「慢」なので「慢心」という言葉の使い方の方が元々の意味に近いようだ。「慢心」は禁物。いつの時代も謙虚は美徳の一つである。 (酒井)

 愚痴(ぐち)

 日常では「愚痴をこぼす」という場合に使いますが、もともと仏教用語で「真実をわかっていないこと」を指します。漢字の「愚」も「痴」も「愚か」の意味があります。愚痴は「無明(むみょう)」とも呼びます。

 仏教では、生きていれば必ず苦しみが伴うと説きます。その苦しみを引き起こすのは、執着です。そして執着を引き起こすのが、愚痴(無明)です。だから愚痴を克服すれば、苦しみの源である執着を断つことになります。これが「真実に目覚める」、すなわちさとりを開くことです。愚痴を克服する道を示すのが、仏教です。

 今のような意味での「愚痴をこぼす」という言い方の初出はわかりませんが、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や夏目漱石の『吾輩は猫である』にありますから、明治時代には普及していたようです。(多田)

金輪際(こんりんざい)

 お釈迦さまに遅れることおよそ千年、現在のパキスタンに生まれてアビダルマという学問を大成し、浄土真宗に帰した天親菩薩。
 
 著作の一つ『倶舎論(くしゃろん)』には、古代インドの神話的世界観が体系的に示されており、我が国へアリストテレスが輸入されてからもなお、強い影響力を保っている。その要因は、私の視座から外界を眺めるばかりでなく、内面の意識や心理の根底とのこんがらがった関係(業)と、そこから放たれる方法(解脱)を主題としているからであろう。

 さて、いよいよ宇宙が成立するという時、微細な風が動きはじめる。すると上部の濁った層が(まるでミルクを熱すると膜が張るようにして)水分の層と金属の層とに分離し、我々はその境を「金輪際」と呼んできた。金輪の上には広海や大地と天空に雪山がそびえており、それぞれの生命は行為の結果にしたがい、ぐるぐると循環し続けている。

 ただ「断じて」とか「とことん」等というよりも、地獄より深くにある「金輪際」と形容する事で、言う人の決意を強烈に感じるものである。(小柴) 

三昧(さんまい)

 築地本願寺の近くにたくさんチェーン展開しているお鮨屋さん、「すしざんまい」。その店名からは「お鮨で満腹になる」ようなイメージが浮かぶ方が多いのではないでしょうか。「ぜいたくざんまい」という言葉はどうでしょう。これは、「やりたい放題」という意味で使われます。

 これらから、「三昧(さんまい)」は現代では「量がたっぷりあること」という意味で使われることが多いですが、元は「サマーディ」という仏教語です。

 本来の意味は「精神を集中し、物欲や色欲などの雑念を捨てること」なのですが、いつしか、雑念を捨てるのではなく、逆に、欲望に耽るときに「さんまい」と使われるようになってしまいました。いやはや。(松本)
 

四苦八苦(しくはっく)

 大変な苦労をしたり、辛い気持ちを抱えたりすることを「四苦八苦する」といいます。しかし仏教の「苦」とは苦悩を表すだけでなく、「思い通りにならない」の意味があります。

 お釈迦さまは「一切皆苦(いっさいかいく)」とおっしゃいました。仏教は「世の中のすべては思い通りにならない」というところから出発します。「苦」の代表が「生まれること」「老いること」「病になること」「死ぬこと」の生老病死の四苦です。

 さらに「愛する人と別れること(愛別離苦/あいべつりく)」「嫌いな人と会うこと(怨憎会苦/おんぞうえく)」「求めるものが手に入らないこと(求不得苦/ぐふとくく)」「自分の心と身体に執着すること( 五蘊盛苦/ごうんじょうく)」の四苦を加えたものを「四苦八苦」といいます。

 思い通りにならない現実を、自分の思い通りにしようと生きるところに苦悩やストレスが生まれます。単純明快にも思えますが、自分の都合を捨てることの難しさにも改めて気づかされます。(横内)

娑婆(しゃば)

 刑務所などに収監された者が塀の外の自由な世界を実感したときに「娑婆の空気はうまい」と語るイメージがある。

 「娑婆」は元々仏教用語でサンスクリット語「サハー」の音訳で堪え忍ぶ「サフ」という動詞から派生した名詞だいう。意訳では「忍土」「堪忍土」などと訳されている。

 ということは今一般に用いられている自由な世界という意味とは全く逆ということになる。

 お釈迦さまの出家の動機には人生における苦があった。苦悩は現実と自分の幸せと思う世界との乖離から生じる。近代文明は思うにまかせない現実を思いに合わせる営みを積み重ねてきた。しかし完全に現実をコントロールするこしは難しい。いまだこの世界は娑婆であることに変わりはない。(酒井) 

シャリ

 お寿司のお米部分「シャリ」。もとになった言葉が「舎利」という説があります。
 
 舎利はサンスクリット語「シャリーラ」の音写で身体を意味するのですが、やがて聖者の遺骨の意味で用いられました。

 お釈迦様が世を去ると火葬され、遺骨(仏舎利)は八つの部族が分け合って、それぞれ塔を建てて供養しました。
実はその後もこれをめぐった対立があり、結果、仏舎利は小さな粒になっていくのです。
 
  日本でお米を舎利になぞらえたのは、江戸前寿司が発達した頃といいます。白く、小さな米粒を手で握りながら、一粒一粒を大切なものとして仏舎利に重ねていったのでしょうね。まさしく暮らしにあふれる仏教語。食欲の秋にかみしめたいですね。(藤本)
 

【上記記事は、築地本願寺新報に掲載された記事を転載しています。本誌の記事はウェブにてご覧いただけます】

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